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モンゴルがモンゴル国と中国の内モンゴル自治区の二つの地域に分かれていった経緯...

ryo********さん

2009/12/1611:19:37

モンゴルがモンゴル国と中国の内モンゴル自治区の二つの地域に分かれていった経緯について教えて下さい。

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2009/12/1614:03:52

元は紅巾の乱で滅亡しました。詳しく説明すると元はモンゴル人が漢人を征服したモンゴル人の王朝であり、そのモンゴル人による漢人の支配が終わったというのが元が滅亡したという意味です。それでモンゴル人は、中原(漢人が住む農耕地帯)を出て故地であるモンゴル高原に引き上げて元の遊牧生活に戻ったのです。モンゴル人の王朝自体は、場所を変えて継続したのです。つまり元は滅亡したがモンゴルは滅亡してはいないのです。元が滅亡した後のモンゴル人の王朝を北元と呼びます。これは中国史においては少し特異的なことです。今まで漢人を支配した異民族は、ほとんど中華文明を受け入れて漢人に同化していったのだけど、モンゴル人だけは中華文明に染まることなく漢人に同化されることなくモンゴル人という民族的アイデンティティを継続してもっていたということです。それはチンギス・カンという偉大な英雄の子孫なのだという誇りがあったからでしょう。その北元が17世紀はじめに女真族の後金に征服されてしまいます。さらに後金は清と国号を変えて、農民反乱で滅んだ明の後をついで(農民反乱を鎮圧してZ)中原に進出し清朝と呼ばれることになります。清朝の時代になって漢人は人口増加し、新しい農耕地が必要になりました。新しい入植地が必要になりました。そして北元の領土の内で、稲作は無理でも、蕎麦、じゃがいも、小麦、コーリャンといった寒冷地でも栽培可能な南寄りの一帯に、漢人が入植して農耕地帯に変えていったのです。清朝は20世紀はじめ、辛亥革命によって滅亡します。北元は独立するチャンスを迎えました。しかし漢人の入植が進んでいて、モンゴル人と漢人の混住地帯となっていた一帯は独立できずに、内モンゴル自治区として中国に留まることになってしまったのです。結局、農耕不可能な牧草地帯だけが、漢人が入植しなかった為にモンゴル国として独立しました。以上のように説明したことが2つの地域に分かれていった経緯でございまする。

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na_********さん

2009/12/1612:00:03

清朝において、清の直接統治下におかれたのが内モンゴルで、間接統治下におかれたのが外モンゴルになります。
清に直接、間接を問わずに統治外におかれたモンゴルが、現在ロシア領となっているブリヤート自治共和国になります。

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