ここから本文です

新約聖書にある『放蕩息子』のお話について

alwayswelloffさん

2010/1/420:00:46

新約聖書にある『放蕩息子』のお話について

働き者の兄が一生懸命働いて父親に認めて貰おうと努力するよりも、怠け者が普通に働くようになるほうが賞賛されるのは何故でしょうか。

悔い改めたからというのは分かりますが、元々働き者だった長男が納得しなければいけないのが分かりません。
「まじめな人は貧乏くじを引く」というようにも受け取れて、長男が可哀そうに感じます。
「まじめで働き者なら人格者でもあれ」というのもおかしいと思います。

同じように、マルタとマリア姉妹のお話がありますが、何故姉マルタのほうは非難されて妹は良い思いをするのでしょうか。
褒められることを期待して働くのはいけないことなのでしょうか。
親や師に評価して貰いたがったり喜んで貰いたくて何かするのは幼稚であるかも知れませんが心が汚い行いなのでしょうか。

これらのお話の解釈や教訓を教えて下さい。

閲覧数:
3,547
回答数:
4
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

qwei004さん

2010/1/423:07:24

例え話とは極めて多義的で、複数の含意があるものです。この話も例外ではないと思います。
含意の一つは、この怠け者と働き者は他者から見ての客観的事実としてではなく、自分にとって自分は怠け者か働き者かという評価として理解することが可能だろうという点です。
自分の働きを働き者だと考えて満足していると見失うことがあるという示唆ですね。そして多くの人がどんなに真面目に働いても自分はまだ働きが足りないのではないかと常に自分を責め続けています。自分を責めて自分は神の救済に値しないと絶望する凡人に、そんな自分でも救済されるかもしれないと、この話は気づかせてくれます。
そして、もう一点、自分は真面目で十分に働いていると自己評価する者への教えがあると思います。
兄やマルタは日々正しい行いをすることで既に神の祝福の中にいます。もしそのことに気づいていれば、父やイエスからの更なる褒め言葉を必要とはしないはずですよね。彼らもまた、真面目に生きてはいても自らが常に受け取っている神の祝福を忘れているということです。人は日常的な恵みには気づきにくく、他人が受け取る一時的な祝福に気を取られてしまうことがあるものです。
弟はただ帰ってきたわけではなく、自分は息子と呼ばれるに値しない、だから使用人として雇ってくれ、と父に請うために帰ってきました。その悔い改めこそが弟を救っているのだと思います。

現代的な意味は以上のようになりますが、聖書の文脈を言えば、この話はパリサイ人に向けて語られています。イエスの話を聞こうと罪人も集まっていた場を見たパリサイ人が、イエスは罪人とも一緒に食事をする、と揶揄したことに対してのイエスの話です。
イエスはパリサイ人たちの権威主義を厳しく批判していて、兄やマルタの、善行を行っている自分たちは何者にも勝って祝福されるべきと訴える姿は、彼らへの批判とも言われています。
天国の門は先に来た者より後から来た者が先に入る、という一節もあり、長い迷いの末にようやく信仰に辿り着いた凡人こそが天国に優先して入れるのだとしています。早い時期から信仰に入れる者とは信仰深い者という意味ではなく、生活のために盗みをする必要もなかった恵まれた人ということもできますよね。恵まれた環境の中で善を貫くことはそれほど難しくはありません。でも、不幸にして罪を冒さなければ生き延びることができず、何が正しいかも知らされず、暗闇の中で生きなければならなかった人が当時はたくさんいて、彼らにとっては善を貫くことすらも、息をすることすらも必死だった時代でした。そういう人達の善の実践の重みこそをイエスはもっとも尊いとしたのだと思います。

質問した人からのコメント

2010/1/5 14:18:25

兄やマルタがパリサイ人を揶揄していたというのは思いもよりませんでした。
丁寧な解説ありがとうございます。
恵まれた環境の中で行う善行の易さと恵まれない環境からスタートした人のお話も大変参考になりました。

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

2010/1/513:29:55

信仰の話なので・・・

何かごりやくを得ようとして働くことは最も悪く、ご利益を求めないで働くことがまだ尊いということでしょうね。
或いは旧約にもありますが、むしろ働き者にこそ困難、非難が、神の試練として与えられるという話だと思います

2010/1/421:36:53

「放蕩息子」(ルカ15:11~32)
>働き者の兄が一生懸命働いて父親に認めて貰おうと努力するよりも、怠け者が普通に働くようになるほうが賞賛される
少し話しのあらすじが違っているように見受けられますが。

「放蕩息子」の兄については、先の回答者さまのおっしゃるとおりだと思います。「父」に忠実に仕えていて、いつも一緒にいます。弟が放蕩の限りをつくして帰ってきたとき、父は兄に「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」(ルカ15:31)と言います。
一方、放蕩息子の弟については「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」(ルカ15:32)

この「たとえ」の「父」は神を指しています。神に忠実にしている「兄」と、「父」=神に背いて生きる「弟」が対照的です。放蕩息子は、神に背いて生きている=「死んでいた」(ルカ15:32)人が、悔い改めて、神のもとに立ち返ることのたとえ話です。
神に忠実に生きていた「兄」が、悔い改めた「弟」のことで「父」に不平を言う必要がないのです。「父」は「兄」のことをじゅうぶんに愛していると31節で言っているとおりです。
ルカ福音書15章は、神に背いて生きている人=「罪人」が悔い改めたときに神がどれほど喜ぶかを書いています。

福音書のイエスの「たとえ」は、一人で読むと、論理的におかしい・現代人の感覚からズレていて理解しにくいところがあります。加藤隆『新約聖書の「たとえ」を解く』(ちくま新書)などは手ごろで参考になるかもしれません。

rinronsanさん

2010/1/420:35:26

(放蕩息子)
真面目な方はそれだけで十分神様から祝福されています。でも人間はなかなか真面目に出来ない弱い心を持っています。その人間が大切なことに気付いたのだから、偉いと思います。

(マルタとマリア)
お世話をしたマリアの苦労もイエスは大切だと思っていました。ただ、自分の頑張りにとらわれると他人を批判しがちです。マリアには、このことに気付いてほしかったのだと思います。

正しいことが出来ない弱い側からの観点をイエスは大切にしたのだと思います。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問や知恵ノートは選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。