征韓論で敗れ下野した板垣退助が、西郷隆盛や江藤新平らのように反乱を起こす可能性はなかったでしょうか。

征韓論で敗れ下野した板垣退助が、西郷隆盛や江藤新平らのように反乱を起こす可能性はなかったでしょうか。 佐賀の乱に呼応して土佐で士族が武装蜂起していれば、中央政府は大ピンチになったと思うのですが?

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明治6年に西郷、江藤、板垣らは参議を辞職しました。 翌年、江藤は明治7年2月に「佐賀の乱」を起こし、鹿児島、高知を回り挙兵を訴えますが結局3月29日に高知で捕縛されます。一方、板垣退助は明治7年1月には「民選議院設立建白書」を左院に提出し「愛国公党」代表となり、4月には立志社を創立しています。 この経緯をみると、江藤、板垣の2人はほぼ同時に政治行動を起こしています。ただ方向性は明らかに異なり、江藤はいはゆる「士族の反乱」で、板垣は「自由民権運動」です。不平士族の集まりであることは共通でも、ともに立つことは難しかったと思います。 明治7年から10年は士族の反乱が続き、明治10年の時点では、鹿児島の私学校と高知の立志社が明治政府の二大敵国の観を呈していました。 ただ明治政府は「士族の反乱」は鎮圧できると考えていて、権力闘争の相手としては「自由民権」派を主にすえていたと思います。立志社(板垣)の側も同じ認識で、「議会開設」こそがメインテーマと考えていたと思います。西南戦争への呼応はありえなかったのではないでしょうか。 西南戦争後も自由民権運動はますます高まり、明治14年10月政府は「議会開設の詔勅」を発布し何とか蜂起を沈静化しようとします。(自由民権派も「尊王」ですから天皇の約束は信じます。)立志社は「自由党」となり議会の準備を始めますが「自由党」の運動も「政府」の妨害も過激化し、岩倉具視が「フランス革命の前夜の様子」という騒然とした状態となります。 この「革命前夜」の状態で明治15年4月、板垣退助が襲われる事件がありました。(「板垣死すとも自由は死せず」は有名です。)当初は政府による「テロ」が疑われたため全国の自由党員は憤激し、もし板垣が蜂起するとしたらこのときだったでしょう。成功すれば「自由民権」革命となったかもしれないのですが、このときも天皇による見舞いの勅使派遣で板垣はおさえられてしまいます。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ご回答、ありがとうございます。 BAは、とても迷いましたが、wizardidoさんを選ばせていただきました。大変詳しく、ていねいな解説、感謝いたします。 また、最初に回答をくださり、補足解説までしていただいたmekuriyaさん、とても参考になりました。ありがとうございます。 また、よろしくお願いします。

お礼日時:2010/3/27 18:30

その他の回答(1件)

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板垣退助は、もうとっくに士族という意識を失っていたと思うのです。それは後藤象二郎にも共通する点で、士族出身だといっても士族でつるんで何かしようなどという発想は全然無かったと思います。土佐だけどうして士族の反乱が起きなかったのか。それは私にも分からないし説明する準備はない。確かにそうなれば大ピンチだったでしょうね。二人は随分早い段階で武装蜂起路線から距離を置いて議会主義路線になっている。そうした思想がどこから生じたのか。土佐藩の教育に理由があるのだと思うけど、よく分かりません。 【補足】 あるいは、そんな大それたことではなく、ただ上士だったから、お前ら下士といっしょにするなよという程度のことなのか。土佐勤王党の消滅で土佐には武装闘争派が残っていなかった、あるいは、そういった事件が背景で勢力結集が難しかった。いろんな要素が絡み合っているような気もします。