ここから本文です

私の苗字は甲斐といいますが、この苗字は九州熊本に多いらしいですが(実際親は熊本...

アバター

ID非公開さん

2010/5/1222:38:01

私の苗字は甲斐といいますが、この苗字は九州熊本に多いらしいですが(実際親は熊本です)
現在の山梨は昔甲斐の国ということでどういう繋がりがあるかご存知の方 教えて下さい。またどういう血筋、由来かも教えていただけると嬉しいです。

閲覧数:
27,312
回答数:
2

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

rak********さん

2010/5/1300:10:17

「甲斐」は、
九州に特に多い苗字です。
特に宮崎県の苗字ランキングでは
1位の黒木に次ぐ2位で、約5900件。
その次に多いのが大分県で県内ランキング10位で約2260件。
3番目が熊本県で県内ランキング42位で約1550件、
ついでに4番目が福岡県で175位の約1060件です。
この苗字は全国では約17000件ですので、
この4県で全国の60%以上になります。


甲斐氏の発祥は、文永、弘安の役で功績を上げた
鎌倉期中期の武将で菊池氏の第10代当主・菊池武房の子、菊池武本は、
早世した兄の隆盛亡き後、隆盛の嫡男で甥の十一代時隆と家督を廻って争いました。
そして、「時隆に家督を」と評定した幕府に不満を抱き時隆を殺害、
武本自身も自害して果てました。
時隆の弟・武時がその後、十二代菊池家惣領を継ぎました。
武本の子武村は、甲斐国に逃れましたが、鎌倉幕府の滅亡後、
武村の子重村は足利氏に属して足利尊氏と共に九州に進軍し、
このときに初めて甲斐氏を名乗りました。
反菊池である武家方として戦う為に「菊池」の姓を捨て、
復活を遂げた地・甲斐の国名を名乗ったのでした。
延元三年(1338年)に大友氏と肥後へ進軍しましたが、
菊池武重に敗れ日向に逃れました。
このときに日向や高千穂に甲斐一族が土着したため、
今日でも甲斐姓が存在していると言われています。
武時の跡は、武重、武士、そして武重の嫡子十五代乙阿迦丸と
嫡流が続きましたが、
いつしか庶子家や家臣団の発言力や軍事力が高まり、
力の衰えた嫡流は菊池家の将来に暗雲が立ちはじめるのを感じて、
肥後から自然消滅のように消えてしまいました。


その他の詳細やその後の甲斐家に関しては
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kai_k.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E6%B0%8F

をご覧下さい。

アバター

質問した人からのコメント

2010/5/19 16:06:18

降参 なるほどでした。お二人様方、歴史家のような詳しい説明どうも有り難うございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

pap********さん

2010/5/1223:31:58

甲斐氏の系図によると、甲斐氏は肥後の名族菊池氏(藤原北家隆家流という)の一族で、菊池氏12代当主武房の子武本に始まるとされます。武本は甥の時隆と菊池家の当主の座を争い、鎌倉の評定所に訴え出たが敗訴したので、甥の時隆を殺害し、自害しました。武本の子武村は(鎌倉から?)甲斐国都留郡に逃れます。武村の子重村の時に鎌倉幕府が滅亡、重村は足利尊氏に従い九州に進軍し肥後に入り、故地の甲斐国に因み、甲斐氏を称しました。これが甲斐氏の始まりです。(系図には武本が甲斐六郎を称したとするものもあります。)

甲斐氏は武家方として本家の菊池氏と戦いますが破れ、日向に逃れます。甲斐一族は先ず日向に広まりました。その後阿蘇大宮司家の重臣となった甲斐氏は、甲斐親直の時に、阿蘇氏に叛いた肥後国益城郡御船城主の御船氏を討伐し、御船城を与えられました。こうして甲斐氏は肥後にも広まり、その後九州一帯に子孫が広まることとなりました。

あわせて知りたい

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる