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浄圓寺の曼荼羅の解釈についてお尋ねいたします。

ゆきにゃんこさん

2010/5/2602:02:29

浄圓寺の曼荼羅の解釈についてお尋ねいたします。

現在、創価学会員に下付されている浄圓寺所蔵の日寛上人筆の御本尊についてですが、これをお形木御本尊として下付することを否定する論拠の一つとして「件の曼荼羅は当時浄圓寺の住職であった本澄坊日澄師に授与された一機一縁の曼荼羅であるから・・・・・・」というものがあります。
でも、一機一縁というのは万機万縁に対する語であって、つまりは日蓮大聖人お認めの御本尊のうち、本門戒壇の大御本尊だけが唯一の万機万縁であり、それ以外の大聖人の御真筆の曼荼羅が一機一縁であると理解しておりました。
そして、御歴代の御法主上人のお認めの御本尊はすべて本門戒壇の大御本尊を書写し奉ったたものですよね。
大御本尊を書写されたものなら、それを一機一縁と評するのは不適切なのではないでしょうか。
日蓮正宗のサイトを見ても、学会の御本尊を破折する根拠としては「一機一縁の曼荼羅であるから」という表現は使ってなかったように思います。
もし日寛上人筆の曼荼羅が一機一縁であるとしたら、大御本尊を書写し奉ったものであっても大聖人以外の御歴代の筆によると一機一縁になるのでしょうか。
それとも時の御法主上人の御判断で、一機一縁と万機万縁をお認めわけることができるのでしょうか。

※この質問の趣旨は一機一縁の曼荼羅についての解釈のみです。
それ以外の中傷に類する御発言はご遠慮くださいませ。

補足つまり浄圓寺の曼荼羅は学会への下付を前提に認められた訳ではないから一機や万機の判断外ということなのですね。
では破折ビデオで言われている事は、浄圓寺の曼荼羅は大御本尊のお写しではあるけど一機一縁の御本尊であるとの解釈でよろしいのでしょうか。
でも、万機万縁の御本尊を書写される権能を御所持されながら、あえて一機一縁の御本尊を認められる必要性なんてあるのでしょうか。

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ich********さん

編集あり2010/5/2716:56:25

どうも言葉の枝葉に捉われておるようですが、もとより日蓮正宗には万機万縁なる言葉はありません。学会が作った造語でありましょう。

日蓮正宗では一閻浮提総与の大御本尊様と大御本尊様以外のすべての御本尊様を一機一縁の御本尊様と称します。

「一閻浮提総与」とは「全世界の人々に等しく与えられたもの」との意味であり、御本尊に冠した場合は「全世界のすべての人々が信受すべき御本尊」という意味である。
しかるに創価学会は、この「一閻浮提総与」を、単に・すべての衆生すなわち創価学会員をはじめとする人々に与えられたもの・と解釈している。

とあるように、全世界の人々に与えられた御本尊という意味ではありません。
ですから学会は誤った解釈をしてるがゆえに、一機一縁に対して万機万縁なる言葉を作り、万人に授与しても良い御本尊などと珍妙な発想が出てくるのです。

日蓮正宗では一閻浮提総与の御本尊様は弘安二年の大御本尊様ただ一体を指すのであって、大御本尊様以外のその他の大聖人御真筆・御歴代御法主上人猊下御書写を含めてすべての御本尊様は一機一縁の御本尊様と称するのです。
また既出の回答にもあるように、一機一縁の御本尊様だからその授与された方のみに功徳があり、それ以外の方が拝んでも功徳はないということはありません。もちろん正しい信仰の筋目が大前提であるのは言うまでも有りません。
学会の言うところの万機万縁の御本尊様とは一体何を指すのでしょうか??

>これをお形木御本尊として下付することを否定する論拠の一つとして「件の曼荼羅は当時浄圓寺の住職であった本澄坊日澄師に授与された一機一縁の曼荼羅であるから

この破折の意味は、授与書きの削除にあるのです。日寛上人が大行阿闍梨本證坊日證師に与えられた一機一縁の御本尊様の授与書きを勝手に削除したことに対する破折です。
授与書きには必ずその方に授与されるという意味に於いて一機一縁の甚深の意義が存するのです。それを学会が勝手に削除していることに対して、変造の本尊であり、それは日寛上人の御心を踏みにじる行為であると破折しているのです。
それを一機一縁の言葉のみに捉われて、この御本尊は万機万縁であるから万人に授与しても良いという訳のわからない発想につながるのです。もとより御宗門はそんな事を言っておりません。
御本尊様に関する全ての大権は御法主上人猊下にあらせられるのです。この事が大前提です。
ですから一機一縁であるとかないとか関係ないのです。
そもそも学会には本尊を授与する資格も作成する資格も最初から何もないのですから、それ以前の問題です。

>それとも時の御法主上人の御判断で、一機一縁と万機万縁をお認めわけることができるのでしょうか。
>浄圓寺の曼荼羅は大御本尊のお写しではあるけど一機一縁の御本尊であるとの解釈でよろしいのでしょうか

御戒壇様以外の御本尊様はすべて一機一縁の御本尊様でありますから、こちらは万機万縁の御本尊様(元よりありませんが)、こちらは一機一縁の御本尊様だなどと、猊下がわざわざ認めるわけがないです。

>万機万縁の御本尊を書写される権能を御所持されながら、あえて一機一縁の御本尊を認められる必要性なんてあるのでしょうか。

この万機万縁なる言葉がそもそも間違いであるので答えようがないですが、現代に於いて御本尊様は唯授一人血脈相承の上から御内証を伝持なされておられる御法主上人猊下が御書写遊ばされるのです。一機一縁の御本尊様も大御本尊様からすべてお出ましになり全て帰するわけです。大御本尊様以外全ては一機一縁の御本尊様なのですから、認めるも何もありません。

質問した人からのコメント

2010/5/29 17:45:54

この質問の趣旨は破折ビデオの内容から、一機一縁という言葉を使って御本尊に優劣を設け、それを論拠に日寛上人筆の御本尊を否定されているように感じられたため質問をさせていただきました。
今回の質問は不敬、不遜な内容でもあり、表現も回答者様に対してご無礼な部分も多々あったと思います、にも関わらずたくさんのご丁寧、かつご誠実な回答をお寄せくださいましたことを、心より感謝申し上げます。

ベストアンサー以外の回答

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loo********さん

編集あり2010/5/2810:20:38

■補足2
f3mu4b792さん 彫刻の御形木も写真製版も同じと知りなさい。
科学の発達も知りなさい。
そこまで、日蓮正宗の信者の方は劣っているのですか。
末路が見える様だ。

どちらも、弘安2年10月12日以降、大聖人の南無妙法蓮華経は一閻浮提総与です。万機万縁です。

一閻浮提総与、万機万縁の言い方に拘ってはいけません。

まるで、『守文の徒』ですね。

間違いの元になっていますよ。

正宗の害毒を撒き散らしてはいけません。


■補足
一閻浮提総与は字の如く万機万縁ですと云う事で、気に入った方の言葉を使えば良いのです。

書写された御本尊の『願主』の添書は貫主の信者に対する思い入れです。この事で『一機一縁』とすると、受持する方も下附する方も『大聖人とは違う御本尊をたもつ』と云う想いになります。歴史上で示した大聖人の事実に反します。この様な事は時の寛主が決める事ではない上、大聖人の法華経に疵を入れた事になります。

大聖人の南無妙法蓮華経は一閻浮提総与です。万機万縁です。
浄圓寺の曼荼羅もそうですが、その御形木からの御本尊も壊れた輪転機ならいざ知らず一閻浮提総与です。万機万縁です。

■元回答
私は学会員です。

一機一縁の

一機とは特定の仏の説法および経を感受して信を取る一部分の衆生の機根をいいます。

一縁は仏と縁のある一部分の衆生をいいます。

釈迦仏法では一部の機縁の衆生のために説いた爾前権教を一機一縁の経と云い、法華経は全ての衆生の為に説いた経ですので万機万縁となります。

末法の法華経では、

弘安2年10月12日の一閻浮提総与大御本尊が万機万縁になり、それ以前に大聖人が特定の信者に与えられた御本尊を一機一縁の本尊と云います。

御義口伝上0735.13
智者愚者をしなべて南無妙法蓮華経の記を説きて而強毒之するなり

報恩抄0328.16
日本乃至漢土・月氏、一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。

この様に大聖人がされた事を、弘安2年10月12日の一閻浮提総与大御本尊に顕され、それ以降の書写からの御本尊も、その御形木御本尊も御形木書写の御本尊も万機万縁の御本尊になります。歴史上から見ても、同じ万機万縁の御本尊です。見た通りです。


私は、御本尊の中に『破和合僧』で法華経に疵を付けた日顕書写の名があっては信心が殺がれますので、大聖人を御本仏として、又、教義をはっきりと六巻抄で著された日寛上人の御形木御本尊を拝しています。

下記は、あとがき です。
http://www.geocities.jp/lookoutover/ikyoubunn/ikatogaki.htm#001

f3m********さん

編集あり2010/5/2822:21:09

認識がそもそも違います。創価学会の本尊は「御形木」ではありません。創価学会が日寛上人直筆の本物の御本尊を、勝手に写真に撮って、「勝手に改竄して作った」物を大量印刷しただけのコピー紙です。だからニセ札になぞらえて「ニセ本尊」と呼ぶのです。
改竄しておきながら「日寛上人の御本尊」などとは、法盗人猛々しいにもほどがあるでしょう。
そもそも日寛上人は日蓮正宗の御法主上人なのです。日蓮正宗を誹謗する創価学会が日蓮正宗の御法主が書写された御本尊を勝手に改竄コピーすることは、日寛上人のお心を踏みにじる所業であることは明白です。
また、このコピー紙ですが、、学会員さんが祈祷の対境にする為、悪鬼・魔が宿る魔札になってしまう仏法上の道理があります。

次に、日蓮正宗の正統教学に「万機万縁」なる言葉も考え方もありません。能所の立て分けと大御本尊の意義が全く分かってないからこそ言えるのであろう、実に不遜な言い方です。
創価学会は「御書根本」を謳いながら、御書に無い概念や言葉を造る自語相違団体だということです。

(なお、創価学会では「書写」の意味も意義も会員に教えられないため、学会員さんは「書写された御本尊はどれも大御本尊と同じ相貌である」などとも思い込まされているようです。)

よって、ご質問自体が全く成り立っていないのです。


>万機万縁の御本尊を書写される権能を御所持されながら、あえて一機一縁の御本尊を認められる必要性なんてあるのでしょうか。

このご質問の意味はなんとなく分かりますが、そもそも大聖人が、大御本尊と共に多くの一機一縁の御本尊を残された事実を忘れていませんか?

bou********さん

編集あり2010/5/2619:31:04

fs2784さんが言われているように、日蓮正宗には万機万縁という言葉は基本的に存在しません。一閻浮提総与の大御本尊とは末法の御本仏の大慈大悲の御心から末法万年の一切衆生が信ずべきところの御本尊であるということです。

末法万年の衆生の機根を鑑みられてのことではなく、久遠元初において即座開悟された妙法とは、一切衆生の成仏の本因となるものであり、一閻浮提総与の大御本尊とは、そのお悟りになられた本因妙の妙法を末法の御本仏の立場からの建立されたものです。この事は、質問者様は十分御存知のことですが、であるならば戒壇の御本尊様に万機万縁という言葉を使うのは不適切と思えるのではないでしょうか。言おうとすれば言えますけど。

ゆえに、大聖人様御在世時も、御入滅後も、一閻浮提総与の大御本尊と一機一縁の御本尊しかないということです。一機一縁の御本尊の意味合いはまた違っていますが。大聖人様がお認めにたった御本尊には未究境の本尊もたくさんありますから。

一機とは、文字通り、授者の機根のことですね。日蓮大聖人様を末法の御本仏と拝し奉ることのできる仏法上におけるこころの純真さ、素直さのごときものでしょう。一縁とは、授者と授与者との三世の仏法の上からの縁です。

授与者の日蓮大聖人様の仏法を信仰したい、御本尊様を拝したいという純真ないのちがあり、授者はその信心に偽りがないことを確かめられ、唯受一人血脈附法の上から、本門戒壇の御本尊様を御書写申し上げるわけです。いのちといのちとの化導があるのです。

一機一縁の御本尊様とは日蓮大聖人様の御内証を血脈相承された御法主上人が、授与者において、この日蓮大聖人様の御法魂を拝して仏道を成就することができるようにための、ひとつの化導のことなのです。

質問者様は一機一縁の御本尊様のこの能化から所化への仏道成就のための化導ということを、事の一念三千の法という、法の側面から見るのでわかりにくくなっているように思います。

日寛上人の御本尊様は、そのような化導の上から拝すれば、本證坊に対して仏道を大願成就してほしいという日寛上人の御心は当然籠もっていると思います。だからといって法の側面から見れば、一機一縁の御本尊様は授与者以外の人にはお題目をあげても功徳がないというものではありません。其の功徳はみなに等しいわけです。
この意味では万機万縁ともあえていえると思います。

あくまで、そこに能化から所化への一本の化導の姿があるということなのです。化導の上から言えば一機一縁の御本尊とは日寛上人から本證坊に対しての御心といってもいいかもしれません。

法という言葉を使いましたが、御本尊様である日蓮大聖人の御魂に具わるところの法であることはいうまでもありません。

日蓮正宗においては、一機一縁の御本尊様は様々な因縁により、総本山へお戻りになります。時の御法主上人の願い(御質問の件でいえば日寛上人の本證坊に対する成仏得道への願い、これは本證坊の願いでもあります)により根源の法体よりお出ましになられた御本尊は、もとの法体へお還りになる時に当たっては、御法主上人が御祈念を遊ばされます。

一機一縁の御本尊様は、このように根源の法体である日蓮大聖人の大霊にすべて帰趨することになるのです。

【追記】
破折ビデオについて語られていますが、日蓮正宗にあっては御本尊とは宗祖日蓮大聖人様の大霊、御魂であると拝しています。妙法とは仏の御心に具わるものであり、仏の御心という点から御本尊様を拝しますので、一機一縁の御本尊とは単なる化導上だけの事だけではなく、一機一縁の御本尊様におけるところの日寛上人の御心ということも考える必要があります。化導の道筋の他に、この点からの批判にもなっているのだと推察します。

fs2********さん

編集あり2010/5/2612:58:20

「時の御法主上人の御判断で、一機一縁と万機万縁をお認めわけることができる」
まあ、
「そういう判断される」なら、それで良いと思います。

ただ、やはりすべて御本尊様は「一閻浮提総与」の大御本尊様の「御書写」そこからの、御法主上人猊下の判断による「御形木」であるわけです。
この「大御本尊から」というのが重要であろうと思います。

特に淨圓寺の御本尊には脇書きがあって、「願主○○」というのがあるわけです。
つまり「淨圓寺の御本尊」から出発して、書写、あるいは御形木、というのは、
一機一縁も、万機万縁もありません。

日顕上人猊下は「万機万縁」という衆生の機根を中心としたものの言い方は、無い、と仰っていましたね。

補足

どうしても「万機万縁」という議論をしたいようですが、
「衆生の機根」という方面から判断するのではなく、

「願主」をいれることで、結果的に「一機一縁になる」ということです。
まあ、多数に下附される御形木御本尊にしても、
ある意味「一機一縁」ではあるのです。「目的」は一つしかありませんから。

大御本尊だけが「一閻浮提総与」であって、他の御本尊は全部「一機一縁」という意味になるでしょうね。

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