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【500枚】「甲斐国巨摩郡」とは、詳しく言うと現在の山梨県の何市何町辺りでしょう...

ruc********さん

2010/6/316:28:29

【500枚】「甲斐国巨摩郡」とは、詳しく言うと現在の山梨県の何市何町辺りでしょうか?

――
地理的なことを教えて下さい。
あとこれは知っていたら出いいのですが、明治時代、大正、昭和初期について教えて下さい。

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his********さん

編集あり2010/6/1018:02:34

甲斐国巨摩郡は、1878(明治11)年に北巨摩郡・中巨摩郡・南巨摩郡に分割されています。
その後の市町村合併でかつての郡境を越境しているケースもあるので厳密には一致しませんが、おおむね下記の市町村がかつての巨摩郡に相当します。

(北巨摩郡)北杜市
(北巨摩郡)韮崎市
(北巨摩郡)甲斐市
(中巨摩郡)甲斐市
(中巨摩郡)中央市
(中巨摩郡)南アルプス市
中巨摩郡昭和町
南巨摩郡南部町
南巨摩郡早川町
南巨摩郡身延町
南巨摩郡富士川町

郡の変遷(中部地方)
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/gun/g-tyubu.htm


北巨摩郡・中巨摩郡・南巨摩郡それぞれの明治〜現在までの市町村の変遷は下記のサイトに詳しく載っています。

市町村の変遷 山梨県
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/04tyubu/19_yamanasi...


【追記】
ウィキペディアの「巨摩郡」の説明をそのまま転載している回答がありますが、こうした転載は著作権法で定めた「引用の要件」を満たしていないため「引用」とは言えず、著作権を侵害する違法行為となります。

巨摩郡 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%91%A9%E9%83%A1

ウィキペディアを引用するときのガイドライン
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%...

引用 - 文化庁 著作権なるほど質問箱
http://bushclover.code.ouj.ac.jp/c-edu/ref.asp#10

ブログにコピペ。これって違法?! - [よくわかる法律・裁判] All About
http://allabout.co.jp/family/lawabc/closeup/CU20060426A/

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den********さん

2010/6/1101:40:48

甲斐四郡は巨摩郡、山梨郡、八代郡、都留郡によって構成されています。

甲府盆地にあたるのは前山郡で、甲府とか古代以来の中核地域は山梨郡にあたりますね。山梨郡は甲府盆地中央から北部にあたり、中央から南部が八代郡にあたります。甲府盆地には釜無・富士川が流れてますが、この釜無・富士川あたりを境に山梨・八代郡巨摩郡の境界があり、おおむね甲府盆地の西部から山地あたりがすっぽりと巨摩郡の領域にあたります。現在の地名でいえば、北部から北杜市、韮崎市、甲斐市、南アルプス市、富士川町(鰍沢・増穂)、身延町、南部町あたりですね。

山梨の西側一帯と考えても差し支えがないものと思われます。明治以降は、巨摩郡域は北巨摩郡、中巨摩郡、南巨摩郡に三分されていますね。

gov********さん

2010/6/1013:02:16

近世まで甲斐国は4郡で構成されていたが、その中で面積は最大。大まかにいうと甲斐国を東西に3分割した際の西部にあたる甲府盆地と南アルプス地域に相当する南北に長く広大な郡域で、のちの北巨摩郡、中巨摩郡の荒川以西、および南巨摩郡のうち富士川以西の地域に相当。北部と北西部を信濃国佐久郡、諏訪郡、伊那郡と接し、東は山梨郡、八代郡と接し、西部と南部は駿河国安倍郡、庵原郡と接する。北には八ヶ岳や茅ヶ岳、西には甲斐駒ヶ岳や北岳などがあり、郡中を釜無川が南流し、御勅使川や諸河川を合流して富士川にいたる。

初見史料は『正倉院文書』天平宝字5年(761年)12月「甲斐国司解」に見られる「巨麻郡栗原郷」。郡名の由来は二つの説があり、江戸時代に編纂された『甲斐国志』など近世の地誌類によれば、古代に多くの御牧が多く存在したことから、良馬(駒)を産出した地である事にちなみ「駒」という言葉が由来となったという説と、668年の朝鮮半島での高句麗滅亡以後、『続日本紀』霊亀2年(716年)5月16日条に甲斐はじめ関東や中部の7カ国へ高句麗からの帰化人が渡っている記事が見られることから、高句麗からの帰化人にちなみ「高麗」という言葉が由来となったという説があった。近代までは前者の「駒説」が有力であったが、関晃による上代特殊仮名遣の研究により、「駒」のコは甲類、「高麗」のコは乙類で、乙類の「巨」に一致する「高麗説」が妥当であり、高句麗形渡来氏族大狛連(狛造)の本貫地である河内国大県郡巨麻郷や若江郡巨麻郷に「巨麻」が当てられている事から、巨麻は高句麗(高麗)を意味すると考えられている。


『和名類聚抄』では等力、速見、栗原、青沼、真衣、大井、市川、川合、余部の9郷が見られ、等力と栗原は飛び地であった可能性があり、のちに青沼郷とともに山梨郡へ編入されている。また、市川郷の一部も八代郡へ編入。古代甲斐国では甲斐の黒駒伝承に象徴されるように馬産が行われていたと考えられているが、古代には真衣野牧、穂坂牧、柏前牧の官牧が成立し、『延喜式』によれば朝廷に駒を貢進していたという。

巨麻郡へは高句麗遺民が遷置されたと考えられているが、それ以前にも巨麻郡地域や甲斐国内へ定住していた渡来人集団の存在を示す形跡が残されている。横根・桜井塚古墳群をはじめ春日居古墳群など、盆地北縁の甲府市羽黒町から横根町、笛吹市(旧石和町から旧春日居町)の山裾地域には渡来人の墓制と考えられている積石塚古墳が分布しており、大蔵経寺山古墳群の積石塚は5世紀にまで遡ると考えられている。同じく成立事情に渡来人が関わっているとされる信濃国北部の高井郡においても積石塚が分布している。高井郡では古代馬が生産されているが、県内においても塩部遺跡や東山北遺跡の方形周溝墓で4世紀後半から5世紀初頭の馬の歯が出土しており[2]、高井郡をはじめ積石塚古墳と馬の生産を行っていた地域間での交流が指摘されている[3]。

それまで原野であった地域への立郡事情にも渡来人の関わりが考察されており、磯貝正義は栗原郷・等々力郷が飛び地であることに着目し、山梨郡の有力豪族が牧場経営などを目的に渡来人を利用して立郡したとする説を提唱している[4]。

一方、末木健は考古学的成果に依拠し、天狗沢瓦窯跡(甲斐市、旧中巨摩郡敷島町)から高句麗系軒丸瓦が発見されたことに着目し、寺院建立のために渡来系工人集団(壬生直氏か)が畿内政権の支援を得て立郡した可能性を指摘している [5]。

その後、渡来人の足跡は途絶えるが、『続日本紀』に拠れば霊亀2年(716年)に甲斐を含む東国の高麗人を武蔵国へ移し高麗郡が置かれたとあり、中核集団が移住したとも考えられている。

荘園の初見は、『仁和寺文書』法勝院領目録の安和二年(969年)7月8日に見られる「市河荘」で、これは甲斐国で荘園公領制確立以前の10世紀に成立した荘園となっている。中世には甘利、逸見、加賀美、大井、布施、奈古、鎌田、大八幡、山小笠原、原小笠原、小井川、鷹津名、志麻などの諸庄が見られ、ほか小笠原、逸見、武川、八田、飯野などの牧や、藤井、杣などの保も成立。これらを勢力基盤に甲斐源氏の諸氏が土着し、常陸国から流罪となり市川庄に拠り、八ヶ岳山麓に逸見牧を経営した源義光・義清を祖とする甲斐武田氏をはじめ、逸見氏、一条氏、甘利氏、加賀美氏、小笠原氏、南部氏、奈古氏などが出現。

近世には甲州街道の韮崎宿、台ヶ原宿、教来石宿が整備されていた。また、韮崎宿から信濃国佐久地方へ至る佐久往還が整備され、若神子宿と長沢宿がおかれた。また富士川水運による運送も盛んであった。

1878年、郡区町村編制法により分割されることとなる。当初は西巨摩、東巨摩、南巨摩の3郡に分割する予定であったが、内務省の指令により、それぞれ北巨摩郡、中巨摩郡、南巨摩郡の3郡に分割された。

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