ここから本文です

明治維新後の明治政府でもしばらくキリスト教徒への弾圧があったと聞きましたが、...

youseamitさん

2010/6/1101:23:10

明治維新後の明治政府でもしばらくキリスト教徒への弾圧があったと聞きましたが、これは廃仏稀釈と同じような並びで解釈すると良いでしょうか。つまり、神道の地位を高めるためという事でしょうか。

閲覧数:
405
回答数:
4

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

shi********さん

2010/6/1113:37:29

廃仏毀釈は本来、明治元年3月に「仏教も外国渡来のもので日本固有のものではない」との趣旨で、大教院が設立されキリスト教禁止のまなのだからと、唯一の神を伊勢神宮として仏教も弾圧しました。
明治5年東照大権現、佛華開眼には一貫神を指導してするとの命があり、仏教においても神道を勧誘しました。
ただそれらの朝令暮改の之行為に反感を持つ仏教徒も多く、各地で放火、反乱が起こったといわれています。
ただそれ以前東北での治安が確定していない時期、内乱の悪化危惧し、政府が排仏毀釈でないこと明治元年6月各派本山に布告したが効果がなく明治7年3月東本願寺からの質問主意書が政府に提出するにあたって神教分離となるとともになった。
キリスト教の布教については、幕末開国期に各国の宣教師が来日、市民に対して布教が黙認されていたが、公には禁止されていた。
禁止の理由は、該外の異文化により国内治安に対する脅威と、上記の神仏分離の発想に通じることが有った。
また岩倉使節団が交渉の際にキリスト教布教禁止がネックになり不平等条約改訂が進まなかったことも解禁された要因だろう

質問した人からのコメント

2010/6/17 23:35:34

どうもありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

2010/6/1108:31:49

廃仏毀釈とは無関係です。そもそもは明治政府は神仏分離令を発しただけで仏教徒への弾圧などしていない。江戸時代の徳川幕府による神仏習合政策を廃止しただけです。江戸時代は神社に仏像を置くといったおかしなことがまかり通っていたからです。それが一部の地域の一部の民衆の行き過ぎた行動を生んでしまった。それが廃仏毀釈です。
一方、キリスト教徒の弾圧は、徳川幕府の禁教政策を継承したものです。慶応4年に五榜の掲示といわれる高札で、「三札:邪宗門厳禁」として民衆に示しました。邪宗門とは、暗にキリスト教を意味しています。浦上四番崩れといわれるキリスト教徒弾圧事件が起きました。元々は瓦解寸前の幕府が捕縛した隠れキリシタンの処置が明治政府に継承されることになり、明治政府も無罪放免とはせずに流罪を申し渡したのです。明治政府も徳川幕府と同様に国策としてキリスト教徒弾圧政策を継承したのです。明治6年、禁教政策は欧米の激しい抗議を受けて廃止され、浦上四番崩れの受刑者も釈放されました。
というわけで全然同じような並びではありません。

山田太郎さん

2010/6/1107:42:26

欧米の植民地主義の手先になられることを心配したと思います。しかし、かなり近代的な宗教だということは認めたと思います。

pro********さん

編集あり2010/6/1101:49:33

単に江戸時代のキリスト禁教令がまだ有効だっただけです。

西欧からの文句で廃止された。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる