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フランス革命はどうしてロベスピエール独裁になったんでしょうか。

koy********さん

2010/6/2322:19:08

フランス革命はどうしてロベスピエール独裁になったんでしょうか。

フランス革命は途中より民意に反してロベスピエール独裁になり、恐怖政治が第三身分まで及ぶようになっています。
ジロンド派粛正の後は、ジャコバン派のエベール、ダントンと粛正して完全に独裁制になり、スターリン並みの粛正が国全体に及んでいます。

公安委員会を掌握して、貴族のみならず一般民衆も処刑の対象にしてばかりではなく、ヴァンデ、リヨンの内戦も非常に多くの犠牲者が出た上に、徹底的に屠殺されています。

民主主義を掲げ、民意を示すための革命が改革どころか、改悪になっています。ロベスピエールはなぜ民意を無視してでも独裁権を持ち大粛正を断行したんでしょうか。

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gen********さん

編集あり2010/6/2403:30:09

全然違いますね。前提が”すべて”間違ってます。あなたの思っていることは実際の歴史と異なり間違った情報で間違った結論に行き着いてます。まず①「ロベスピエール独裁」なるものは存在しません。民意に反してロベスピエール独裁になったというようなのは全く見当違いです。そのようなことは事実無根。民衆が熱望して恐怖政治がはじまったという状況を完全に知らないようで、ロベスピエールという人間が独裁者になりあがったかのような印象というのは間違ったイメージです。

恐怖政治は内戦の発生によって生まれた超法規的な非常手段であり、パリのサンキュロットを中心に反革命と戦う武器として民衆と議会の要望で始まったものです。エベール派など左派分子は常に恐怖政治の強化を要求していました。裏切り者をさがすというのが動機であり、独裁とは全く関係なく、それ以前から存在しました。

そもそもフランス革命において個人独裁が始まるのはブリュメール18日のクーデタ以来ナポレオンによる軍事独裁からです。恐怖政治期は、「公安員会政府独裁」と呼ばれます。これは中央集権的な集団統治体制で、いわゆる委員会独裁は個人独裁ではないのです。公安委員会がすべての執行権力を握ったことからきてますが、この公安員会は12名で構成され、各分野を専門にする委員によって権限が分割されています。②独裁者は存在しません。

しかもこのなかでロベスピエール派はロベスピエールとクートンとサン=ジュストの3名のみで、あとは平原派が3名(バレール、カルノー、ランデ)、非ロベスピエール派のモンターニュ派3名(サン=タンドレ、プリュール・ド・ラ・コート=ドール、プリュール・ド・ラ・マルヌ)、コルドリエ派2名(コロー=デルボワ、ビヨー=ヴァレンヌ)、ダントン派1名(エロー・ド・セシェル・逮捕まで)です。つまり③ロベスピエールは公安委員会を掌握してません。

さらに警察権などをもつ保安委員会や、司法権をもつ革命裁判所には、ロベスピエール派は1人もいませんでした。さらに財政を担当するカンボンは公安委員から外されたため、軍事(カルノー)、財政、警察、司法が、ロベスピエールの管轄外です。つまり④ロベスピエールは一度も独裁権を持ったことはありません。ロベスピエール派は議会内でも外でも常に少数派だったのです。その権力はむしろ脆弱で、他のモンターニュ派や平原派(議会多数派)を説得するという方法で政治が行われていました。だからこそ彼は武力で打倒されて失脚したのです。(金正日やスターリンよろしく本当の独裁者なら打倒はできない)

また大量のギロチン処刑は、検事と革命裁判所のせいであり、ロベスピエールと直接関係なく、これを彼の責任のようにいうのは後述のスケープゴートです。

ロベスピエールが個人的に粛清をしたというのは、ダントン派だけです。エベール派はコミューンの力で議会政府を転覆しようとしたので自業自得であり、粛清というより自滅です。その他多くの恐怖政治の犠牲者は、ロベスピエール本人やその派閥の意向とは関係なく、革命裁判所や派遣議員が動いたものであり、パリでは検事のいきすぎた検挙と、地方では派遣議員の腐敗の産物です。派遣議員はヴァンデやリヨンなど各地で過剰な殺戮を行っただけでなく、不正蓄財目的で多くの金持ちを投獄し財産を没収したり、身代金をとったりしていたのは有名な話で、そしてその派遣議員を監査し、裁こうとしていたのがロベスピエールであり、かつテルミドールのクーデタは、彼ら犯罪者である粛清予定者の反乱であったというのが一般的な見解なのです。よって⑤恐怖政治の犠牲の責任をロベスピエール派に負わせることはできません。

ロベスピエールが独裁者という誤解の多くは、クーデタで打倒されるべきは独裁者という先入観です。しかし前述のように独裁は存在せず、さらにクーデタは、腐敗した政治家が保身のために、先手を打ったというのが現実であり、陰謀の妄想に深く捕らわれていたパリは利用されたのです。それはクーデタ後に成立した総裁政府が、民主主義を否定し、新たな特権階級であるブルジョワと結託して、腐敗した政治を行ったことでより明らかになります。⑥クーデタは非民主勢力の行動でした。テルミドールは、民衆蜂起ではなく、バラスが指揮した軍隊をつかった襲撃によって行われてます。

当時、憲法は停止されていましたが、ロベスピエール派は貧者のための政治を目指しており、民意にそっていました。民意に反して民主主義を弾圧したのは、彼らを打倒したテルミドール派と総裁政府です。ヴァンデミエールのクーデタはまさに1795年版の天安門事件であり、民衆殺戮でした。選挙法も改悪され、総裁政府は革命を停止させてしまいます。これはロベスピエールが失脚して起こったことであり、ロベスピエールが独裁者という嘘のイメージも彼らがスケープゴートとしてつくったものです。

全然違いますね。前提が”すべて”間違ってます。あなたの思っていることは実際の歴史と異なり間違った情報で間違った結論...

質問した人からのコメント

2010/6/24 08:45:19

驚く なるほど、目から鱗が落ちました。独裁というイメージはテルミドールの商社が作り出した虚像だったんですか、教科書通りだと「すべてロベスピエールのせい」とされていました。ありがとうございました。

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ara********さん

2010/6/2323:05:53

話は簡単ざます。革命家と政治家とは違うざます。信ちゃんは革命家として優秀でしたが、政治家としては馬鹿か気違いざました。小沢(や鳩)も9月以降はひどかったねー?ロベたんも同じざます。

put********さん

2010/6/2322:28:28

多数決原理っていうのが大したものではないことは先進国の政治をみればわかりますよね。何一つ決められず大衆の欲望に流されて行くだけ。

独裁と恐怖で理想国家建設を目指すっていうのも一理あると思います。

人口が過剰であれば政敵の虐殺も正当化されるでしょうしね。

1793年6月、ジャコバン派は、武装したパリ市民の力を背景に、ジロンド派のおもだった幹部を、国民公会から追放しました。
これ以降、約一年間、ジャコバン派独裁という。

政治の中心となったのは、ロベスピエール。6歳で母親を亡くし、10歳の時には父親が蒸発。きょうだいたちの面倒を見るために、苦学して法律を学んび、弁護士となった苦労人です。もともと正義感が強かったんだろう。弁護士として、貧しい庶民の弁護を多く引き受けて有名になる。愛読書はルソー。三部会が開かれたときに、議員に選ばれ、パリに出て政治活動を開始します。

このロベスピエールを中心に、ジャコバン派独裁がおこなわれた。だから、独裁をやっている側としては、権力を握って甘い汁を吸ってやろうという気はさらさらない。あくまでも、フランス革命と共和国を守るための非常手段と考えていた。
組織としては、公安委員会というのが政府の中枢です。これは、国民公会に設置された委員会で、ロベスピエールたちは、この公安委員会に権力を集中し、革命を推進していきます。

ジャコバン派がこの間におこなった主な政策は、次のようなものです。
・封建的特権の無償廃止。1789年8月に、国民議会が封建的特権の廃止を宣言していますが、そのときは「有償」。今回は「無償」です。お金を払って、権利を買い取らなくてもよい。さらに、亡命貴族の土地を小分けして農民に売却した。しかも、10年間支払を猶予したので、農民は土地を比較的容易に手に入れることができました。
・最高価格令。インフレを抑制するために、政府が強制的に商品の最高価格を決定した。
・徴兵制の採用など軍政改革。義勇軍と正規軍を統合したり、軍隊内の体刑を廃止したりする。これによって、フランス軍は、国境にせまる諸外国軍を打ち破る力を持つ軍隊に成長していきます。
・革命暦の制定。グレゴリウス暦はキリスト教と結びついているということで、新しい暦をつくった。季節に応じて月の呼び方も変えます。ブリュメールとかテルミドールとか、フランス革命期の事件の名前で出てくるのが、この革命暦の月の名前です。
・メートル法の採用。度量衡の統一と、基準の客観化をおこなった。
・最高存在の祭典。革命のモラルを高めるために「最高存在」をまつる大イベントを実施した。最高存在というのは、理性と考えていいと思います。ロベスピエールは、キリスト教そのものを否定していたわけではないようですが、それに替わる崇拝の対象を求めたのです。この祭典は、これっきりで後世には全然影響力を持ちません。
・ジャコバン憲法(93年憲法)の制定。男子普通選挙などを含む民主的内容の憲法ですが、未実施に終わります。

そして、ジャコバン派独裁の最大の特徴が「恐怖政治」です。この時期に、反革命罪で非常に多くの人たちが処刑されたので恐怖政治という。
ジャコバン派独裁が始まったころは、国内各地で反革命の反乱が起きていたので、革命政府を守るためには、きびしい処分で反対派を押さえ込む必要があった。
また、最高価格令など、下層市民にとってはありがたい法律ですが、商工業者など上層・中層市民にとっては、値上げが出来なくて迷惑このうえない。だから、最高価格令を守らせるためには、強引な手段が必要です。そのため、充分な裁判もないまま死刑が乱発されたのです。

この時期に処刑された人数を見ておきましょう。パリに革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日までの処刑が1251人。一月平均130人前後。一日に直すと4.5人。現在日本で一年間で死刑執行される数がこれくらいですか。しかも、この数字はパリだけですからね。94年6月11日からは裁判が簡略されて、処刑が激増します。7月27日までの47日間に1376人。一日平均29人。昼間の8時間に死刑執行がおこなわれるとすると、一時間平均3.6人。だいたい15分ごとに首が落ちている計算になる。当然、無実の罪で処刑されたものも多かったはずで、ロベスピエールに冷酷な悪魔のようなイメージを持っている人がいるのも、これが原因です。

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