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ポツダム会談について質問です。

wbe********さん

2010/12/1101:18:34

ポツダム会談について質問です。

ポツダム会談では米・英・ソが出ていますが、なぜ仲が悪くなりかけていたであろう(冷戦時に対立してたから)ソ連とアメリカが会談しているのですか?これってよく考えたらすごいことじゃないですか。自分こういう歴史は苦手なのでわかりやすい説明おねがいします。

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kan********さん

編集あり2010/12/1121:36:16

ポツダム会談はヤルタ会談で合意した内容に齟齬が出たこと、そしてアメリカの指導者がルーズベルトからトルーマンへ交代したことが大きく影響していると考えられます。

そもそもルーズベルトは戦後世界の青写真を描く際に主要連合国、つまり米英ソに中仏を加えた5カ国が中心となって戦後も協調して世界平和を追求する方針を目指していました。そしてルーズベルトの死後、1945年4月の国連創設によってその構想は実現しかけたかに見えましたがポーランド問題、ギリシャ・トルコ問題等でソ連との間に亀裂が広がったために米英はソ連との関係を再考するようになったのです。

トルーマンはソ連の行動に対し厳格な態度で臨んでいたので、ソ連との関係は悪化しました。1945年2月のヤルタ会談での取り決めが完全に履行されず、次第に険悪化する米英とソ連の関係に加えてドイツ降伏後にドイツの管理問題等の新たな問題も増えたため、その調整に米英ソの3国の指導者が会談する必要があった訳です。当然にソ連の対日戦への参戦時期等についても話し合いがありました。

冷戦の起源をどこに見るかによって話が変わる可能性がありますが、ポツダムの時点ではまだ3国間には決定的な分裂はまだ起こっていなかったと個人的には思います。

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elb********さん

2010/12/1110:34:48

要するに、戦後の自分たちの取り分を話し合っていたといえばいいかもしれませんねえ。
ポツダム会談の前のヤルタ会談ではチャーチルの回顧録を読むと、呆け気味のルーズベルトに代わって自分がスターリンに色々提案をおこなったとあります。
たとえば、ギリシャをどうするかという議題では、テーブルの上のしわくちゃのナプキンに鉛筆で英国40%アメリカ20%ソ連40%(だと思いましたが)なんて書きなぐり、また壁の世界地図の前でチャーチルが国名の脇に三国の数字を書き込み、そこにスターリンが同意!という意味のサインを赤鉛筆で書き込んだためにすぐに消せず、写真にとってから消したとか、苦労したようです。
このとき怠帯(ルーズベルト)はほとんど口を開けっ放し、人の言うことも理解しがたいかんじだったとチャーチルは回想します。それでスターリンは、チャーチルが怠帯に薬物を与えたのではと疑ったとの記録もあります。

この後のポツダム会談では、怠帯は死亡してトルーマンに、チャーチルは落選してアトリーに代わっていますが、スターリンは変わっていません。で、資本主義とは不便なもんですな、とあざわらったとか・・。このときは主に日本の処理をどうするかでした。
新顔の二人に向かって、スターリンは「生前のルーズベルト氏はわたしに参戦してくれといった」とかいわなかったとか死人にくちなしを決め込んだので、怒ったアトリーは隠れていたチャーチルを呼び出し、スターリンを愕然とさせたなんて逸話もあります。

戦後チャーチルは、反ソ演説をおこない、鉄のカーテンという造語をつくり、象徴的な言葉になりました。彼は一貫して反ソキャンペーンの首領であり、自由社会の支持者でした。なにかチャーチルの話になってしまいました。

log********さん

2010/12/1102:48:33

確かにポツダム会談当時、米英とソ連との関係はしだいに険悪化する兆候が現れていまし
たが、まだ戦争でドイツを降伏させたばかりであり、従って今後ドイツの占領統治をめぐって
米英・ソ連ともに、相手側との緊密な協力関係を必要としていました。

さらに日本がまだ降伏していなかったことから、アメリカの立場とすれば、ヤルタ会談で定め
られたソ連の対日参戦の約束や戦後の日本統治に関する問題、また中国や朝鮮半島にお
ける日本軍の武装解除問題など、まだまだソ連と協力して解決しなければならない問題が
山積していたために、アメリカとしてもまだポツダム会談の時点においては、すぐにソ連との
同盟関係を断ち切って共産主義との対決に備えることは不可能だったと言えます(もちろん
戦後の国際情勢を見すえて、ソ連を強く警戒していたことは確かです)。


アメリカとソ連との敵対関係、いわゆる東西冷戦が本格化するのは、ドイツや日本との戦争
が終了してしばらくたった1947年の春ごろからです。
この年の3月にアメリカのトルーマン大統領が、上下両院議会でいわゆる「トルーマン・ドクト
リン」を発表し、今や世界全体が自由主義か全体主義(ソ連を名指しこそしていないものの、
共産主義のこと)かの2者択一を迫られており、アメリカはあくまでも自由な民主主義社会を
守るために、全力を挙げてその影響力を行使しなければならないとした、極めて反共色の
強い内容の演説を行ない、ここで初めてアメリカの最高指導者が、ソ連をはっきりと敵対視
する情勢認識を示したのです。
また、この演説と同時期に行なわれていた、ドイツの戦後処理をめぐるモスクワでの四カ国
外相会談(モスクワ会談)も、ドイツの統治方針をめぐってアメリカとソ連両国の意見が大き
く対立し、会談は物別れに終わりました。

こうした情勢を受けて、アメリカのマーシャル国務長官がその年の6月に、自由主義諸国を
すみやかに復興させて共産主義の脅威に備えることを目的とした、“マーシャルプラン”と
呼ばれるアメリカ主導の大規模な経済復興援助計画を発表し、ここにアメリカを中心とした
自由主義経済圏と、ソ連を中心とした社会主義経済圏との間で、ヨーロッパ大陸を二つに
分割するというアメリカ政府の意図が明確に示されることになったのです。

したがって、戦後の国際社会を真っ二つに分断することになったアメリカとソ連による東西
冷戦は、このあたりから本格的にスタートしたと言えます。

t_s********さん

2010/12/1101:21:12

その当時は冷戦云々よりも、とりあえず、ナチを、という風潮がありました。

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