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秀吉の大返しは実際のところ何日かったのですか

hou********さん

2011/1/2122:53:16

秀吉の大返しは実際のところ何日かったのですか

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2011/1/2200:47:48

秀吉が信長の死を知ったのが6月3日の夜、高松城主・清水宗治が自刃したのが4日で、秀吉が撤退を開始したのが6月6日午後になります。

・6月6日午後撤退開始

・6月6日岡山城を経て夜に備前・沼城着、6月7日早朝、沼城を出発

・6月7日夜、姫路城着、6月9日朝、姫路を出発

・6月9日夜、明石着、6月10日朝、明石を出発

・6月10日夜、兵庫着、6月11日朝、兵庫を出発

・6月11日午後、尼崎着、中川清秀ら駆けつける。6月12日朝、尼崎出発

・6月12日夜、摂津・富田に着陣、丹羽長秀、池田恒興らと軍議

・6月13日、山崎の戦い

旧日本陸軍の「作戦要務令」によると、完全武装の歩兵の行軍の場合、速度は時速4㎞、1日の行軍距離は24㎞を基準に定めています。甲冑を着用した当時の歩兵の行軍速度も同程度かもしれませんが、軽快な騎馬武者から徒歩の足軽までの雑多な大軍である秀吉軍が、風雨の中で僅か1日半で高松城から姫路城までの70㎞を、迅速に走破でかるかどうかかなり疑問です。

でも史料によっては多少の時間のズレはあっても、6月6日の午後に高松城を出発して、7日後の13日には山崎の戦いに臨んだことには変わりがありません。ゆえに高松城を出発する2日間に武具、甲冑などの物資は海上から先送りし、本隊はできる限りの軽装で移動したかもしれませんし、中国攻めの最中に信長に万が一があったとき、その対応を考慮していた可能性もないとはいえないかもしれません。

質問した人からのコメント

2011/1/25 21:06:48

笑う ありがとうございました

ベストアンサー以外の回答

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山田太郎さん

2011/1/2123:07:19

旧・日本軍の強行軍より速かったそうで、しかも悪路で、荷物もと考えると、無理だそうです。あらかじめ姫路にもう退却していたとか考えないと、どうも無理らしい。

oomesiguraiさん

2011/1/2123:04:46

明智光秀が信長を本能寺で暗殺してから、
秀吉が光秀を討つまでに要した日数は13日です。

①信長横死
②秀吉、それを知り、今戦っている毛利と速攻で和睦
③全軍を東に取って返す
④光秀の準備が整う前に山崎で戦いを挑む
⑤光秀軍は破れ、落ちのびた光秀は途中で百姓に殺される

という流れです。
これが13日で展開したのは、当時としては信じられない速さです。
交通、通信網が発達した現在に例えたら、ほんの数分程度でしょう。

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