ここから本文です

江戸時代の江戸の街は、今でいうとどのあたりからどのあたりまでですか? 品川や...

tao********さん

2011/2/2417:44:35

江戸時代の江戸の街は、今でいうとどのあたりからどのあたりまでですか?
品川や板橋は、時代劇では宿や村と表されていますが、かなりコンパクトな街だったんですか?
また大阪もわかれば教えてください。

閲覧数:
8,704
回答数:
4
お礼:
250枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

umi********さん

編集あり2011/2/2519:31:55

江戸の範囲であれば先のかたがたのおしゃるように江戸時代の朱引きでよいと思います。
ご質問の「江戸の街」が町家だけでなく武家地、寺社地を含めての風景としての江戸の町と江戸の農村の境目となると古地図からイメージでのアプローチを提案してみます。時代劇で一般的にイメージされる江戸の町であればさらに範囲は狭まります。
西は千駄ヶ谷の近辺が限界点
http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=24
北は谷中(台東区)とか巣鴨近辺まで
http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=29
http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=28
南は青山から品川近辺まで
http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=23
http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=20-1
・・・となりますがこれは地図上の話で実際は上記の地域も寺社地、武家地(ほとんどが丸印の下屋敷)とも畑や林、庭園で緑豊富な場所ですから町らしい町並みとなると先のかたがたのおっしゃるように川柳の世界や大木戸が目安でしょう。以上が江戸時代の終わりごろの江戸の絵図(GOOがネットで公開している地図)からのビジュアル面での江戸の町と江戸の村の境目というあたりでしょうか。
上記の地図の地域は現在の感覚だと外苑東通りの内側+文京区+台東区に該当する地域。
http://map.goo.ne.jp/history/edo_howto.html

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

プロフィール画像

カテゴリマスター

goo********さん

2011/2/2418:15:08

当時は品川や板橋は宿場町として独立していて、江戸の範囲には入ってないようです。よく「江戸前の海」といいますが、それは隅田川河口から品川の沖合の海までの範囲だったそうです。

西に向かうと、新宿は内藤新宿という宿場ですし、渋谷は静かな村でした。

ina********さん

2011/2/2418:46:19

江戸の町の範囲は実は江戸時代の前期・中期までは厳密には決められず、随時広がっていきました。
1818年になって幕府内でもこれでは不便と公式な江戸の町の範囲が決められましたが、この時には江戸の町は肥大化しており、新宿や渋谷駅周辺、あるいは品川まで江戸に含まれてしまっています。

・1603年の町奉行所管轄

江戸城二里四方。内神田、日本橋、浜町、麹町、常盤橋外など計三百町。
これらの地域は古町といわれる。

・明暦の大火(1657年)の頃

深川、浅草、駒込、目黒の内側までが御府内(江戸)。
府内は五里四方に拡大し深川、本所、浅草、駒込、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝までが江戸とされる
ただし、古町を府内、それ以外を府外と呼んだ。

・1662年に新たに町奉行所管轄となった地域

南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋まで。
ただし田んぼが多く実際は町奉行所の取り締まり範囲でなかった。

・1665年の禁令

江戸の手前最初の宿から内側への籠の乗り入れ禁止。
事実上は品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)、高井戸(甲州街道)の各宿から内側を江戸と解釈した禁令であった。

・1765年当時の江戸所払いの範囲

品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸の範囲から追放される。
新宿は滞在OK

・1818年の老中公式見解(いわゆる朱引き)

これによって幕府の公式見解としての江戸の町の範囲が決まった。
東は中川、西は神田上水、南は目黒川。北は荒川や石神井川下流まで
目黒不動尊門前町が江戸に含まれないなど一部入り組んでいる
北は隅田川から王子に抜け、上板橋まで、西は上板橋から中井、東中野から新宿、代々木上原付近から渋谷駅付近、恵比寿から目黒、品川までで大井町は江戸の外、東は隅田川と荒川が近くなっている所から荒川に出て中川を境にして南下という具合。

詳しくは下記(携帯だと難しいかも)
http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html

jas********さん

2011/2/2420:37:06

当時の江戸南北奉行の治安担当範囲は江戸城内堀から四里四方であり、現在の東京23区で現わすと

千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台頭区、江東区全域に、品川、目黒、渋谷、豊島、北、板橋、荒川各区のそれぞれ一部を加えた範囲であり、「江戸」の観念はこの「四里四方」を指しました。

ただ、年とともに江戸御府内の範囲も広がっていきましたが、どからどこまでが江戸御府内が明確ではなかったため、1818年にこの問い合わせに対し、それについて幕府評定所で評議し、江戸朱引図を作成しました。これが江戸の範囲とした幕府の正式見解となりました。

http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html

「本郷も かねやすまでは江戸の内」という川柳がありますが、これは御府内(江戸の市域とされた地域)はかねやす(「乳香酸」という歯磨き粉を売り出した店のこと)までではなく、都市的な街並みが続いたという意味を詠んだものです。

当時の江戸の町は現在の東京よりはるかに狭く、外神田付近は町はずれでした。それと品川宿ですが、街道が整備される以前から漁業の盛んな地であり、東海道一番目の宿場になったことからさらなる繁栄をし、江戸庶民の人気の歓楽街、行楽地でした。板橋宿は平尾宿(下宿)、仲宿、上宿の3宿となり、旅人の送迎は日本橋より平尾宿で行われましたので、平尾宿は送迎客で大層賑わったといいます。酒楼や茶店ができて栄えました。また仲宿は板橋宿の中心地でした。

江戸時代の大坂

http://tsukiyama-kei.jp/modules/tsukiyama1/

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる