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芥川龍之介は、明らかに純文学だと思っていました。 でも、最近になって芥川龍之...

ap429422さん

2011/5/2702:01:52

芥川龍之介は、明らかに純文学だと思っていました。
でも、最近になって芥川龍之介の作品を読み返してみると、
「これ、なんで純文学なんだろう?」って思ってきました。

彼の作品って、なんで純文学なんですか?
純文学の線引きはあいまいで、分かりにくいとは思いますが、よくわかりません。
非常に道徳的だったりしましよね?
みなさん、どうおもいますか?
意見を聞かせてください。お願いします。
自分の中で、芥川龍之介は純文学だってすっきり納得したいです。
だって、なんか、気持ち悪いっていうか、毛玉呑み込んだみたいで、
違和感があるんです。

補足みなさん、ありがとうございます。「芸術」として考えてみると、見方が随分かわりますね。

これは、芥川批判でしょうか…。
そんなつもりは毛頭ありません。
芥川は、私の大好きな文学者です。
純文学でなければ、好きじゃないとかではないです。
大衆文学でも好きです。
でも、何でかな?って思っただけで。
まあ、純文学を私がどうとらえているかによってですよね…

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ベストアンサーに選ばれた回答

2011/5/2702:56:58

学生の頃、一番、はまったのは芥川でしたが・・・いまから考えてみると、芥川の世界観ってのは、西洋思想に影響を受けた理想を描いた文学であると思います。つまり・・・まあ芥川ファンには申し訳ないけれど、質の悪い哲学ですね。

時代の変遷もあったと思うのですが、西洋哲学という流れからみると、彼の思想は、極めて脆弱ですね。でも、彼が、西洋哲学を「かじった」ことによって、思想の枠組みを知ったわけだけれど、日本には、当時、西洋思想なんてほとんど理解されていなかっただろうから、すこしひきこもって理想に走ったのかもしれませんね。

私は、芥川は、哲学をかじった人が、それで現実を眺めたような部分を感じますね。その哲学も、形而上学で、規範的・理想的な土台であったのだろうと思います。他の小説家と違うのは、彼の作品には、やはり規範がありますね。彼がおそらくさまざまな西洋哲学に触れながらも、そこに彼なりの規範を見いだし、まあ・・・そうだな・・・スパゲッティーみたく、日本流にアレンジして(笑)そのアレンジした規範から、お話を考えた人だと思います。まあ、彼の小説は、西洋思想と東洋思想が、混ざってますし・・・

ってことで、かっこいいのかもしれません♪いまでは、まった・・・く信者ではありませんが、若かりし頃は、芥川に魅了されました。でも芥川のような思想で現代社会人にあると、うつ>自殺w でしょうね。うんうんw

質問した人からのコメント

2011/5/29 12:09:29

成功 みなさん、本当にありがとうございます。

質の悪い哲学って、なんか、妙に納得してしまいました。
でも、芸術性が極めて高いので、バランスがいいですよね?
まあ、厭世的になること間違いないです(笑)

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ベストアンサー以外の回答

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2011/5/2807:30:33

質問者様もおっしゃられているとおり文学の区分けは曖昧なので、最後はどうしても受け手の主観になってしまうと思うのですが、純文学かどうかではなくて純文学者かどうかということで言えば、芥川龍之介は純文学者だと思います。

たしかに芥川龍之介の作品には純文学らしくないものも多いですが、これは純文学者が書いた純文学ではない作品であって、純文学ではないけれど純文学の香りがし、純文学ではないけれど純文学者が書いた作品だから純文学に区分けするということで良いのではないかと思います。

分かりにくい回答で申し訳ありません。
例をあげると、
矢沢永吉の歌うバラードは、ロックの臭いがし、永ちゃんがロッカーだからロックとしてあつかうと言うのと同じかと思います。

nettofannさん

2011/5/2719:34:40

私は余り、芥川は好きではありませんが、作家はやはり、いろんな体験と好きな学問とか、皆、違いますよね。小説家と言っても、大方の作家は、いろいろなものに挑戦しますから、どうしても、文学を純とか、大衆とか、あまり、決めつけない方が良いと思います。一人の作家には、その人の人生があります。そして、紆余曲折しながら、最後はこうだったとなりますよね。この分別を誰がしたのか知れませんが、恐らく明治の時代には、無かったでしょう。漱石の弟子となる芥川ですが、漱石により、朝日新聞でデビューをします。漱石の門下生が全てかどうかは分かりませんが、大方、真面目な弟子が多いです。漱石が当時の自然主義者との不仲であったように、芥川も同じような生き方をしています。詰まり、同じ英文科専攻でしたが、漱石が東洋文学を好んだように、芥川も歴史的作風を好んで、自分の文学を造っています。その作品は、違うけれど、やはり、真剣に人間の根源を追求しています。こういう作家は、やはり、純文学と呼べるのかと思います。

2011/5/2717:04:04

ap429422さん、こんにちは。

純文学作家だからと云って、純文学しか書いていないわけではありません。
三島や谷崎、鴎外だって、通俗小説、歴史・時代小説など多種多用な作品を書いてきたわけだから、純文学作家にも「これは、純文学じゃないよね」と云う作品があるのは普通のことです。

finedragonさん

2011/5/2714:31:34

>自分の中で、芥川龍之介は純文学だってすっきり納得したいです。
>だって、なんか、気持ち悪いっていうか、毛玉呑み込んだみたいで、
>違和感があるんです。

芥川にせよ何にせよ、「純文学かどうか」ということは大した問題ではないし、ある意味、そういうことで変に「すっきり」なんかしない方がいいんじゃないですか? また、仮に純文学じゃないとしたら、「じゃあ何なのか」ってことが問題になるはずですが……。それは別に決まらなくても「すっきり」する邪魔にはならないんでしょうか。

「純文学」というカテゴリーを立てる場合、一般的には「大衆文学」というものが自余のものとして意識されているわけですが……。

しかし例えば、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、あれは純文学なんでしょうか大衆文学なんでしょうか。「どちらでもない、あれは童話(児童文学)だ」という答え方も予想できますが、仮にそれでいいんだとすると、芥川でも『蜘蛛の糸』や『河童』あたりはそこにカテゴライズしてしまう道が開けてしまうし、太宰の『走れメロス』なんかもそこに寄せやすいでしょう。
また一方では、質問者さんが例えば山本周五郎や井上靖といった作家の作品について、純文学と考えているのか大衆文学と考えているのか、ということも関わってきます。『羅生門』や『鼻』といった、古典等に題材をとった芥川の諸短編は、そうした側面に着目すれば、これらと共に「歴史小説」と分類することだって可能になるはずです。で、それは一般的にいって「純」なのかそうでないのか。
「純文学」というカテゴリーは、日本文学に固有の、そもそも非常にわかりにくい概念です。小泉八雲の『怪談』について「どちらだ?」ということが問題になってない理由は、あれが英米文学だからに過ぎない。あれと同じようなものを、最初から日本語で書いたならどうなるか……結果的に、かなり芥川の作品と似た位置づけになるかも知れません。

「すっきり」なんかしなくて構わないし、無理にすべきでもないと思います。

また一方、質問者さん御自身のなかに「純文学とはこういうもの」ということがちゃんとあって、その上で芥川の作品がそれにあてはまらないということであれば、それはそれで、つまり「(良い意味であれ悪い意味であれ)芥川は純文学じゃない」っていうことで、別にいいんじゃないかとも思います。

私見では、「純文学」というコトバは、「純喫茶」と同じ程度に死語になってるしそれでいい、と思っています(時代的にも結構重なるなあ)。

2011/5/2709:43:19

芥川龍之介は、晩年になると私小説的な暗い作品を書いているが、それらは「純文学」という気がするが、大部分の、古典からネタを借用した作品は、「読み物」としか思われない。

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