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江戸末期の幕閣とか老中という人の具体的なイメージがピンときません

itc********さん

2011/5/2822:00:41

江戸末期の幕閣とか老中という人の具体的なイメージがピンときません

たとえば、日米和親条約(ペリー)や日米修好通商条約(ハリス)で日本側の委員となって条約書に署名した人たち(※)は当時の老中(或いは幕閣)と考えていいのでしょうか。そもそも当時老中は全体で何人いたのかも知りたいところです。

※1 和親条約の署名者: 林大学頭、井上対馬守、井沢美作守、鵜殿民部少輔、(久里浜で交渉に当たった井上石見守は老中?)
※2 修好通商条約の署名者: 井上信濃守、岩瀬肥後守、(交渉の中心だった堀田備中守は老中と理解してます)

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ベストアンサーに選ばれた回答

but********さん

2011/5/2823:44:30

幕閣・老中とも、「内閣」「閣僚」のような物と考えてよいのではないでしょうか
ただし、「老中」より「幕閣」の方が意味は広いです
幕閣は、幕府の要職にある閣僚の意味ですから、老中以外の、若年寄、三奉行、大目付、京都所司代、大坂城代なども含まれます
「老中」は現代でいう「大臣」 ただ、省庁が特定されておらず、総理を兼ねた各省庁の大臣が数人いて、それぞれ交代で責任者になったり、みんなで合議をして政策を練っているというイメージでよいのではないでしょうか

老中は大体4~5人いますが、
日米和親条約(1854年3月)の時の老中は。。。

阿部正弘(備後福山藩主)
牧野忠雅(越後長岡藩主)
松平忠優(信濃上田藩主)
久世広周(下総関宿藩主)
松平乗全(三河西尾藩主)
内藤信親(越後村上藩主)

の6人

日米修好通商条約(1858年6月)の時の老中は。。。

堀田正睦(下総佐倉藩主)
松平忠固(上記の忠優と同一人物です)
内藤信親
脇坂安宅(播磨龍野藩主)
久世広周

の5人でしたが、
条約締結直後に
堀田正睦、松平忠固が解任され、

松平乗全
太田資始(遠江掛川藩主)
間部詮勝(越前鯖江藩主)
が就任します

この時期は更に老中の上に
大老の
井伊直弼(近江彦根藩主)
がいました

和親条約の署名者は
林大学頭:林復斎(幕府の朱子学者林家当主)が責任者で、
その他は交渉役の一行だと思われます

久里浜の井上石見守なる人物がはっきりとは分からないのですが、老中ではありません

修好通商条約の署名者
井上信濃守:井上清直・下田奉行
岩瀬肥後守:忠震・目付

質問した人からのコメント

2011/5/29 08:42:41

大変よく理解できました。条約署名者は老中ではなく、実務のトップとして指名された人とのことですから、米国代表がイメージしていたものとは少し違っていたようにも思いました。ちなみに井上石見守弘道は大目付です(幕末外国関係文書3)。ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

iwa********さん

2011/5/2823:54:11

①老中とは
老中(ろうじゅう)は、江戸幕府および藩の職名。征夷大将軍(以下、将軍と称す)に直属して国政を統轄する常置の職であり、定名ではなかった。大名時代の徳川家の年寄に由来し、寛永ごろに老中の名称が定着した。老中の最低家禄は2万5,000石とされ、これに満たない場合は老中格とされた。諸藩では家老のことを老中と称する場合がある。

幕府の老中は、大目付・町奉行・遠国奉行・駿府城代などを指揮監督し、朝廷・公家・大名・寺社に関する事柄、知行割りについてなどを統轄した。定員は4人から5人で、普段の業務は月番制で毎月1人が担当し、江戸城本丸御殿にあった御用部屋と呼ばれる部屋を詰め所・執務室とし、重大な事柄については合議した。また、外部に漏れてはいけない重要なことを話し合う時には盗聴(当時は盗聴器はないので床下や天井裏、外からの盗み聞き)をされないよう、更に文書として証拠も残らない最善策として御用部屋に置かれていた灰の上に筆談をした。実際には担当ではない者も月番の者と同じように、重要な事柄を合議・処理をしたりしていた。また、将軍の命令を老中奉書で大名に下達した。

将軍を首相に喩えて、老中を閣僚と看做すような比喩があるが、上記の通り実際にはかなり異なる。老中は政務全般を担当し、月番交代ないし協議しており、現在の閣僚のような政務の分掌は行っていない。江戸幕府の制度では政務の分掌は各奉行レベルによってなされた。しかしながら延宝8年(1680年)には1人を勝手掛老中とし、財政を専任させた。これを老中首座ともいい老中の筆頭として政治を行った。この他、時によって西の丸老中を置いた。西の丸老中は幕政には関与せず専ら西の丸に居住する大御所や将軍嗣子の家政を総括していた。慶応3年(1867年)に幕末の幕政改革で月番制を廃止し、国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の5人の総裁がそれぞれ専任する体制となり、現在の閣僚のような政務の分掌が行われた。
《以上 ウィキペディアより抜粋》


②条約署名に出席したのは実務官僚で、老中ではありません。

A.日米和親条約に調印したのは次の通り。
林大学頭(復斎、全権大使)
井上対馬守(覚弘、全権委員)
伊沢美作守(政義、全権委員)
都筑駿河守(峯重、全権委員)
鵜殿民部少輔(鳩翁、全権委員)

①日米和親条約 嘉永7年(1854年)当時の老中は以下の通り。
阿部正弘(1843年 - 1857年)首座
牧野忠雅(1843年 - 1857年)
松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年)
松平忠優(1848年 - 1855年)
久世広周(1851年 - 1858年、1860年 - 1862年)
内藤信親(1851年 - 1862年)
※( )内は老中在位期間。以下同様。



B.日米修好通商条約に調印したのは次の通り。
井上信濃守(清直、全権大使)
岩瀬肥後守(忠震、全権委員)

②日米通商修好条約 安政5年(1858)当時の大老・老中は以下の通り。
井伊直弼(1858年 - 1860年)大老
堀田正睦(1837年 - 1843年、1855年 - 1858年)首座
間部詮勝(1840年 - 1843年、1858年 - 1859年)
松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年)
久世広周(1851年 - 1858年、1860年 - 1862年)
内藤信親(1851年 - 1862年)
松平忠固(1857年 - 1858年)
脇坂安宅(1857年 - 1860年、1862年)
松平定昭(1867年)



③江戸幕府最後、つまり慶応4年(1868年)時点の老中は以下の通り。
稲葉正邦(1864年 - 1865年、1866年 - 1868年)
松平康英(1865年 - 1868年)
松平乗謨(1866年 - 1868年)
稲葉正巳(1866年 - 1868年)
大河内正質(1867年 - 1868年)
酒井忠惇(1867年 - 1868年)
立花種恭(1868年)

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