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河内と摂津の境い目は?

mag********さん

2011/5/2920:28:43

河内と摂津の境い目は?

河内**と摂津**という地名がありますが、
境い目がよくわかりません。
どのあたりでしょうか?

尾張と三河なら大府市と刈谷市との境の「境川」のような感じです。

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kir********さん

編集あり2011/5/3019:17:46

北のほうから追っていきますと、山城国(古代は山背国)との境界である男山付近から淀川・新淀川の分岐点あたり(現在の毛馬水門付近)までは、淀川が摂津と河内の境と考えてよいでしょう。
この先、いまの大阪市平野区付近までは、古代の国境は判然としません。なぜなら、江戸時代中期まで大和川は八尾市付近で北に向きを変え、大坂城の東で淀川と合流しており、この大和川が摂津・河内の境だったからです。昔は大水が出るたびに川の流れは変わりましたから、国境も一定しないわけです。大雑把に言うと、現在の平野川の流れが大和川の旧河道に近いので、この付近が国境だったと見られます。
さらに、その南、現在の長居公園付近から堺市新金岡町にかけては、多少の凸凹はありますが、住吉区と東住吉区、堺市と松原市の行政境がほぼ一直線になっています。これは、古代難波宮の朱雀大路の延長である難波大道が、摂津・河内の境でもあった時代の名残と言われています。
摂津国の境界線は、ここで西へ90度方向を変えて、ほぼ直線状に進みます。ここに長尾街道と呼ばれる旧街道が通っていますが、この道は古代には飛鳥と難波を結ぶ「大津道」と呼ばれた主要道路の遺物で、古代には摂津と和泉の国境を兼ねていました。この「大津道」が堺市の中心部を通るのが、「大小路」(おおしょうじ)と呼ばれる通りで、昔は摂津・和泉の国境であり、堺のメインストリートでもありました。堺という地名も、町の中を国境が通っていることに由来するものです。
古代には、直線状に作られた主要道路が国・郡の境をなしていた例が多いと言われていますが、摂津国の場合、歴史が古いこともあり、その例が多く見られます。
なお、摂津国は古代には「津の国」と呼ばれ、都の外港であることから中央政府の直轄地とされ、摂津職(「津の国を治める職」という意味)の官庁が置かれていましたが、長岡京が築かれると、港の機能は長岡付近で賄えるため廃止され、他の令制国と同じ扱いとなり、官庁の名であった摂津が国名に採用されたものです。

Kiebie2007様へ
私は他の回答者との議論はしない主義ですが、あなたの御意見には不審の点がありますので、異議を述べさせていただきます。
「私の言っていることとほとんど同じではないですか」とは、どういうことでしょうか。あなたの回答の何処に、「古代では直線状道路が国郡の境をなしていた」という近年の歴史学上の発見、「江戸時代まで大和川は河内平野を北流していた」という史実への考察があるのでしょうか。あるというなら、その箇所を明示していただきたいものです。
率直に言って、あなたの回答は「摂津・河内の国境がどこかは、良く分からない」ということを冗長に語っているだけで、質問に対する答えになっていません。だから、他の回答者が歴史学上の発見と史実を織り込んだ別回答を出してくるわけです。これのどこが「同じことなのに、適当な参考書で説明を長く写すだけ」なのでしょうか。
不審の点は他にも複数ありますが、見解の相違ということで理解しておきます。しかし、自己の回答が言及してもいないことを取り上げて、「私の言っていることとほとんど同じ」と言ってのけるとは、奇怪千万としか言いようがありません。

質問した人からのコメント

2011/6/5 10:27:05

参考になりました。

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no_********さん

編集あり2011/5/3017:26:54

私には古代のことはわかりませんが、
廃藩置県の頃の摂津河内国境なら、以下の通りです。
この時代は、ちゃんとした地図が残っているので、
かなり正確に跡をたどることができます。

・淀川上流部は、淀川が国境です。

・守口以南は、守口市と大阪市の境界が国境でした。
旭区太子橋付近が、大きく守口に食い込んでいるように見えますが、
この辺の市境が旧河道でした。

・その南は、旧放出街道(府道159号平野守口線)が、
おおむね国境です。
鶴見区は、両国にまたがっています。

・さらに南へ行くと、先ほどの道が
そのまま大阪市と東大阪市の市境になりますが、
これも国境線です。

・布施付近は、大阪市と東大阪市の境界が入り組んでいますが、
これも、おおむねかつての国境を反映しています。

・生野区は、巽北・西・中・東・南が河内、残りは摂津です。

・巽地区の南は、平野川が境界になっていますが、
さらにこの延長上が国境です。
その先、平野東4丁目付近から先は、東除川が国境です。
川は暗渠になりますが、その上の府道186号大阪羽曳野線の
平野東4丁目交差点以南が、国境です。

・その先、長吉出戸南交差点から西へ、
長居公園通りがおおむね国境です。
この道はかつての八尾街道で、古代の磯歯津路に比定されています。

・長居公園の南に、住吉区と東住吉区の境界がありますが、
これも、国境を反映しています。
そのまま大和川を越えて、国境はさらに南へ伸びていました。
しばらくは、堺市と松原市の境界が国境の反映だと思います。

・その後、この市境は、松原3丁目付近で東に90度に屈曲しますが、
国境は逆に、西に90度曲がります。
旧長尾街道沿いが国境になります。

・そのまま長尾街道に沿って行くと、方違神社と言う神社に行き着きます。
このあたりが、摂津・河内・和泉の三国の国境が接する点でした。

以上、文字で書いただけでは分かりにくいかと思うのですが、
地図でたどっていただければ幸いです。

kie********さん

編集あり2011/5/3010:18:05

完全に都市化しているからわかりにくいですね。だいたい淀川から大阪城の東側あたりに出て、そこから住吉神社のあたりまでが河内と摂津の境で、東成区、西成区、住吉区などというのはみな摂津。住吉神社の前から更に南下したら遠里小野町(おりおのちょう)とかあって、そのあたりが和泉との境。三国ヶ丘というのは、摂津、河内、和泉の境。堺は和泉と摂津の境にあるので堺というさかい。

ただし私は大阪人間ではないし(奈良県人)住吉の辺りはほとんど行ったことがないので、あやしいですが。
摂津というのはもともと「つのくに」と意って、津(難波の港)を管理する所だったから、古代の大阪港のあったところの周辺は摂津です。で、古代の大阪港というのはあっちこっち移動したらしいが、だいたい大阪城の北端あたりにあったらしい。

あとから回答された方、簡明か冗長かの差があるだけで、私の言っていることとほとんど同じではないですか。どこの分野でも同じだね。同じことなのに、適当な参考書で説明を長く写すだけ。大和川の河道が国境だったなんて、ちょっといかがわしいよ。はっきり言って嘘だね。だいたい玉串川も古代の大和川だったというから、それが国境なら、摂津の国は、今の八尾市山本付近や六万字あたりもふくむが、あれは古代からはっきり河内だよ。澁川なんてのも物部氏の根拠の一つだから河内ね。河道の変遷じゃなくて、河道が幾筋にも別れていて、最後は鴻池あたりの湿地帯や池になっている。その最も西側の河道だというならわかるけれど。参考書を写すのもいいが、自分の頭でよく判断して、根拠の曖昧な説明を鵜呑みにしないことが大切ね。

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