ここから本文です

西太后は最後はどのような 人生だったのですか?

fkr********さん

2011/9/621:47:52

西太后は最後はどのような
人生だったのですか?

閲覧数:
16,373
回答数:
1

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

fro********さん

2011/9/1018:55:32

生まれてから亡くなるまでを・・・。

西太后こと幼名「葉赫那拉蘭児(イェホナラランジ)」は、
1835年10月10日に北京で生まれたことになっています。
葉赫那拉氏は、満州貴族八大世家の一つで名門です。

西太后の父は、「葉赫那拉故恵微」、
正四品の中堅官僚、公文書を作成したりする書記官でした。
皇帝に直で会うことが出来る位ですので、
かなり出世した家柄みたいですね。

祖父「景瑞」は刑部朗中(正五品)
曽祖父「吉朗阿」は刑部員外朗(従五品)

彼女の実家は、
皇帝直属とされる八旗(上三旗下五旗)の一つ
「鑲藍旗満州(緑縁の青い旗)」で下五旗の一つ、
彼女が皇太后に上がって
「鑲黄旗満州」上三旗に格上げされます。

14才年上の兄が一人いました。
その後、妹と弟が生まれました。
妹は後の光諸帝の生母となります。

1852年、咸豊帝の「選秀女(皇帝の皇后や貴妃を決めるための催し)」に参加し、
「貴人」という階級で、
選ばれた10人中3番目にあたる位で選抜され後宮に入ったとされます。

皇后に選ばれたのが、
後日「東太后」と呼ばれる事になる「鈕祜禄(ニウグル)氏」
蘭児よりも上のランクの秀女で16才、
18才の西太后より2才年下です。
1853年(咸豊3年)時点での后妃のランクは、
皇后(貞:東太后).雲嬪.蘭貴人(西太后)・・・。

その後、皇后は後宮の東の棟に住んだので、
「東太后」と呼ばれるようになり、
蘭貴人は側室として西の棟に入ります。
西太后は元は懿貴妃、
実の息子である同治帝が即位したので慈禧皇太后と呼ばれ、
紫禁城の西の宮殿に住んだので西太后と呼ばれます。

正室と側室という身分差は、
二人が共に皇太后となってからも埋まることはありませんでした。

宮中に入って3年後、21才の西太后は、咸豊帝の子供を懐妊します。
男子を出産すれば、皇子の母親となり、
たちまち地位の向上が確約され、格段の待遇が保証されます。
西太后は、見事男子を出産しました。
結局、生まれた皇子は、
咸豊帝にとって最後の男子になります。

咸豊帝は、数年後には結核に犯されて世を去り、
西太后の産んだ皇子が同治帝(どうちてい)として後を継ぐことになります。
同治帝は、6歳。
生母の彼女には、皇太后の称号が授けられ、西太后と呼ばれ、
事実上、政治の表舞台に登場します。
この後、西太后は、東皇后(太后)とともに、
幼帝を補佐するとして慣れない政務を代行することになります。

咸豊帝は生前、
東太后には「御賞」、
西太后には「同道堂」の印章を渡し、
上奏文の裁可には、
この二つの印章が捺印される必要があるとしました。
このとき西太后は27歳、東太后は25歳です。

西太后は、咸豊帝の弟の恭親王奕訴と図って、
クーデターを起こし、権力を制圧します。
辛酉政変といわれます。

以降、朝廷は両太后が簾の奥に座り、
両側に恭親王・醇親王(西太后の妹の夫)が佇立しました。
これを「垂簾聴政」と呼び、
1908年まで続きます。
東太后は元々政治に興味がありませんでしたし、
恭親王も失脚します。
47年間の垂簾聴政が、
西太后独裁といわれる所以です。

ただし、同治帝が1873年18歳になった際、彼は親政を開始し、
一旦「撤簾」します。
残念ながら、同治帝の親政は1874年崩御(天然痘、梅毒説もあり)したことで、
1年余りで終了します。
同治帝が皇子を遺さず亡くなったため、
西太后は醇親王奕譞(咸豊帝の弟)と、
彼女の妹の間に生まれた載湉(光緒帝)当時4歳を、
次期皇帝に指名します。
再び幼帝を補佐するとして西太后の第二次「垂簾聴政」が始まります。

西太后が殺戮者のようにお思いかもしれませんが、
彼女が直接手を下して人を殺めたわけではありません。

あえて彼女の周囲で亡くなった人物で、
彼女の意思が働いた可能性があるのは、
1881年に亡くなった咸豊帝の皇后だった慈安太后(東太后)
1890年に北京に迫った8カ国連合軍のために西安へ避難する際に、
光緒帝の側室珍妃が紫禁城内の井戸へ身を投げた事件
光緒帝くらいで、
3人も彼女の関与が噂されるだけで、真相は藪の中です。
1908年11月14日光緒帝が、
戊戌の政変で、北京城(紫禁城)内の瀛台(えんだい)に幽閉されたまま
そして翌日の15日、
西太后が相次いで崩御します。
西太后は死ぬ間際、
自分の妹が産んだ宣統帝・愛新覚羅溥儀(当時2歳)を次期皇帝に指名します。

西太后の死期が接近したことを知った宦官の李英蓮が、
彼女の死後、光緒帝が権力を奪回するのを恐れ、
帝を毒殺した(近年の鑑定でヒ素が検出)と当時噂されたそうです。

滅び行く清朝の最後の実力者がたまたま女性だっただけで、
「悪女」のレッテルを貼られ、
彼女が清朝を滅ぼしたかのようにも言われかねませんが、
どちらにせよ清朝は死に体だったのです。

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

「西太后の最後」の検索結果

検索結果をもっと見る

あわせて知りたい

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる