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上杉氏の家系図について 米沢藩の上杉氏は長尾景虎が上杉憲政の養子になったこ...

tok********さん

2011/9/1610:07:00

上杉氏の家系図について

米沢藩の上杉氏は長尾景虎が上杉憲政の養子になったことから始まりましたよね。
それ以前の上杉氏とは全く別物になったといえますが、
江戸時代歴代藩主には憲政以前の上杉氏の血筋は女系を通しても全くつながらないのでしょうか

もしつながるのであれば、家系図を載せていただけるとありがたいです

補足ご指摘の通り、米沢上杉氏に憲政の血が繋がっていないのと、
途中から吉良氏の男系になっている(女系では景勝からつながっている)のは分かります。

質問としては上杉氏発祥から憲政で直系が断絶するまでの間の系図が何らかの形
(例えば女系から女系へといったもの)で 繋がっていないのでしょうかという事です

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mil********さん

編集あり2011/9/2200:39:53

上杉謙信の生まれた府内長尾家、景勝の生まれた上田長尾家のどちらにも、上杉憲政の生まれた山内上杉家から妻を迎え、跡取りの男子の母となったという記録はありません。妻、母の名前が不詳となっている当主もいますが、山内上杉家といえば越後守護職と関東管領職を継承してきた家柄であり、婚姻関係は名誉である以上に戦略的にも重要であり、必ず記録に残すはずです。よって両家とも上杉憲政以前の上杉家と血縁関係は全く無い、といってよいでしょう。
余談ですが、上杉憲政と正式な養子縁組をした謙信のことは、関東の武将たちも上杉家の家督相続を認め、『山内殿』と敬称していましたが、謙信との養子縁組があやふやであった景勝に対しては、援助を求める書面では『山内殿』として持ち上げても、そうでないときは『長尾喜平次』と呼んでいたようです。

次に景勝の女系子孫として米沢藩上杉家・四代当主となった綱憲の家系ですが、彼は三河守護吉良家の末裔・吉良義央の息子であると同時に、今川氏真、北条氏康、武田信虎の女系子孫でもあります。
このうち、吉良、北条、武田に上杉家との婚姻関係は証明されていませんが、今川家にはあります。八条上杉家初代当主・上杉朝顕の娘が今川泰範に嫁ぎ、範政の母となりました。ついで扇谷上杉家の当主、上杉氏定(但し出身は小山田上杉家)の娘が今川範政に嫁ぎ、範忠の母となっています。

【今川~吉良略系図】
今川泰範=上杉朝顕娘

範政=上杉氏定娘
|
範忠-義忠-氏親-義元-氏真-娘(吉良義定夫人)-吉良義弥(氏真孫娘の夫)-義冬-義央-上杉綱憲

上杉家は鎌倉時代に宗尊親王が鎌倉に下向し、将軍となった際に随行してきた重房を祖とし、足利尊氏の実母・清子の兄・上杉憲房を三代目とする家です。山内上杉家が憲房の子孫であるのに対し、小山田上杉家や扇谷上杉家は憲房の兄弟の子孫の家系です。また八条上杉家は扇谷上杉家の同じ系統の家になります。

上杉景勝は叔父である謙信の死に際し、跡目は自分だとする遺言を捏造、御館の乱で謙信の正式な養子であった上杉景虎(北条氏康の息子)とその妻子(景勝自身の姉と甥、姪)、謙信の養父である上杉憲政を殺して家督を相続しました。
ところが上記系図にある今川氏真の妻は、上杉景虎の姉、すなわち北条氏康の娘でした。元々今川家と北条家は親戚であり、上杉景虎と姉にとって今川氏真は、父親同士が再従兄弟で義兄弟(今川義元の姉が北条氏康の妻)という、ごく近い間柄にありました。娘と孫娘を嫁がせたことで吉良家には二代に渡って今川家と北条家の血が濃く流れることになりました。
従いまして、景勝が簒奪した上杉家の家督を、正統な相続者であった景虎の最近親子孫が全くの偶然による血縁関係(あるいは天の配剤、もしくは毘沙門天のご意志)によって奪還してのけた、と見ることも出来るのです。

【補足】謙信は名門の血筋を重んじましたから、hisagobune様の推論は大いにありえることだと思います。憲政の息子に謙信の姪を娶わせたうえで養子にし、両家の血脈を保ち、謙信が憲政の息子の外戚・後見となるのが理想だったでしょうが、二人の姪は上杉景虎と畠山義春(一説には上条政繁)に嫁いでいます。憲政の息子たちと年齢がつりあわなかったか、あるいは謙信からみて憲政の息子たちでは跡継ぎに相応しい器ではない、と判断されたのかもしれません。
代わりに柿崎憲家に嫁いだ三女に注目できます。
柿崎憲家は1576年の生まれですから、憲政三女もその前後の生まれでしょう。ならば1571年に生まれた上杉景虎の嫡男・道満丸とも年齢が釣り合っていたことになります。謙信の姪の息子であり北条氏康の孫、さらに関東管領上杉憲政の娘婿となれば、越後と関東における最も高貴で強力な存在となりますし、自分の血筋に上杉の家督を戻したい、という憲政の願いも叶うことになります。御館の乱で憲政が景虎に味方したのも、もしかすると子供たち同士の婚約、という理由があったかもしれませんね。

質問した人からのコメント

2011/9/22 21:38:53

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茜空さん

2011/9/1620:31:16

上杉家の直系の家系図は以下の通りです。
女系とはどこのことですか?

重房ー頼重ー憲房ー憲顕ー憲方ー憲定ー憲基ー憲実ー憲忠ー房顕ー
ー顕定ー顕実ー憲房ー憲寛ー憲政ー輝虎===景虎
景虎ー道満丸

his********さん

編集あり2011/9/1623:44:19

入っていません。
上杉憲政とは長尾景虎が養子となっただけで婚姻関係もありませんし、景勝も同様です。

越後長尾家は謙信の伯母にあたる人が越後守護の上杉定実に嫁いでいますが、謙信や景勝には関係ありません。

その後、上杉家は吉良家から養子を取ります。

一部には吉良氏に扇谷上杉氏の血縁があったので、綱憲が吉良家から養子に入った時に扇谷上杉家の血が入ったという説もあります。
しかし、扇谷上杉氏と血統がつながる吉良氏は武蔵吉良氏で綱憲の出た西条吉良氏とは異なる家系で、江戸時代も別に高家として存続していますから、この時も扇谷上杉氏の血が上杉謙信の子孫に受け継がれたことにはならないでしょう。

なお、謙信の養父憲政には実子がおり、男子は平井城落城や御館の乱のときに討ち死にしたといわれるが、生き残った子孫もいると伝えられています。
また、憲政の三女は上杉家の家臣柿崎憲家に嫁いでいて、上杉家の血は家臣に引き継がれたような状態です。

補足に対する回答
南北朝時代に上杉氏と長尾本家は姻戚関係を重ねています。ただ、謙信たちの先祖になった越後長尾氏がと上杉氏と婚姻関係があるのかは定かでありません。ウィキペディアでは、上杉憲政は家来筋で外戚であった越後長尾氏を頼ったと書かれていますが、確証がありません。家系図を見ると越後長尾氏の家系が長尾宗家から別れた後に長尾本家の上杉氏との外戚関係ができているようです。また、越後長尾氏は上杉氏との関係は良くなかったようで、謙信の父為景は、越後守護上杉房能や房能の実兄、関東管領上杉顕定を打ち取っています。このような両氏の関係で上杉憲政は謙信に早くから援軍の依頼を頼めなかったのだと思います。
これについて詳しくは下記をご参照ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B0%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%B0%8F

最後に私の推論ですが、上杉憲政は、謙信に実子がないことから、自分の子供を謙信の養子にして、再び上杉の血筋を本来の家系に戻そうと思っていたのではないでしょうか。それが謙信が急死したため実現することなく終ってしまったのではと考えます。

nab********さん

2011/9/1611:08:50

憲政の子供はいたらしいですが、御館の乱で死亡したり、出家したりと、謙信以降の上杉家には関係がなくなったようです。加えて
元禄の時代には上杉当主はあの吉良上野介の息子が養子入りしていますから、血流なんてあったものじゃないでしょう。

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