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室町時代、三管領 ( 細川、斯波、畠山 )と、連枝 ( 吉良、今川家 )は、応仁の乱以...

bos********さん

2012/1/1821:43:06

室町時代、三管領 ( 細川、斯波、畠山 )と、連枝 ( 吉良、今川家 )は、応仁の乱以前どちらが身分的には上だったのですか?
やはり管領でしょうか?

補足皆様、回答ありがとうございます。
史書は創作が多く、つい激論になりますね。成る程…勉強になります!色々説がありますがあと一つ教えて下さい。官位が入ればどうなるのでしょう?panzer ken様の説なら、各家の同じ嫡流、年、仕官年数、役職無しでは着座配列は同じか別か?将軍と朝廷で違うのか?内乱の懸念から基準を決めず、うやむやにするのか?回答者様の持説でも構いませんので教えて下さい。しつこいですが…

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ryu********さん

編集あり2012/1/2016:03:36

足利将軍家に男系が絶えた場合は、・吉良・今川の順に、足利将軍家に入って将軍職を継ぐことになっていましたので、三管領家も足利一族ですが、幕政は三管四職(宿老:赤松家以外は足利一族でした。)を中心とした守護大名の連邦政権(宿老以外の外様守護も評定衆・引付衆に順番に任じられて幕政に参加していました。)で、幕政への発言力も宿老・外様に限らず領国の数でしたので、幕政への影響力はともかく、身分的には(家格は)将軍職承継資格(順位)のあった連枝家の方が上だったのではないでしょうか。

補足を受けて:質問者の方の補足を受けて、官位をネットで検索していたら、「吉良氏:WiKiPedia」・「今川氏:WiKiPedia」(御存じの通り、インタ-ネットの百科事典です。)に、吉良家・今川家に将軍職継承権(京都公方と関東公方両方とあります。)があった事と,、その為、斯波・畠山・細川家などの他の足利一族よりも吉良・今川家の方が別格の地位にあったとの記述がありました。
~吉良家・今川家で検索してみて下さい。 (今川家の最初と概要に吉良家を含めた記述があります。)
~吉良家・今川家から守護、管領、侍所所司が、出ていないのは、家来の役職だからとあります。

やはり、幕政への影響力や勢力は、三管四職の足利一門の方がありましたが、身分的には将軍職継承権があった連枝の方が上だっただったようです。(ご質問の応仁の乱により、幕府権力が消滅する前です。)

※喜連川家は、名字自体、秀吉により、再興された時から名乗ったとありましたので、外しました。

※大内氏の官位は、歴代左京大夫です。 ~ この家は、その武力財力はもはや将軍家を凌ぐと言われていましたので、外様守護でも別格です。(朝廷に毎年多額の献金をしスポンサーでした。:官位が高いのは、その見返りです。) あまり知られていませんが、9分の1殿と言わていました。(明徳年間の山名一族の6分の1衆は有名ですが) ~ あまり比較対象として気にされない方がいいです。(応仁の乱を終結させる為に、幕府がお願いし、大内軍の撤収費用迄幕府が出す条件で、帰国してもらい応仁の乱は終結しています。)

質問した人からのコメント

2012/1/20 19:51:44

成功 歴史の真実を確かめる術がなく、知るうえで一般的に伝わる物が妥当と判断した場合、古より存在する朝廷が創られし官位その物を上に位置付ける当時の時代背景があったとしたら、役職上幕政では権力、位、共に上であっても、一門ではあるが、やはり管領は内政の考慮から足利高家である連枝側を身分上、上に立てたのではないでしょうか。
史家レベルの余りの質の高い回答者様達には、驚くと共に、凄く勉強になり嬉しかったです!

ベストアンサー以外の回答

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pan********さん

編集あり2012/1/1923:49:29

足利氏の分家の中で最も家格が高いのは斯波氏です。
斯波氏初代の家氏は、母親が北条氏の有力分家である名越氏出身で、本来なら惣領になってもおかしくなかったのですが、父の泰氏が得宗家から後妻をもらい頼氏をもうけたため惣領になれませんでした。
しかし、斯波氏は足利氏の最も格が高い庶子家として、惣領が幼児である時には惣領の代理として幕府に近侍しています。そのため、鎌倉時代は他の庶子家が新しい家名(細川、今川など)を名乗ったのに対して公的にも「足利」で通しています。斯波氏の分家も多くが御所号を許されているのもそのためです。
細川氏の家格はもともと低く、家臣扱いでした。
畠山氏は有力庶子家ではありましたが、新田氏に婿に行っていた義純が、嫁ぎ先を強引に飛び出し、断絶した平姓畠山氏に再婿入りした家です。もともと家格が高い有力御家人の家ですから、足利一門内での地位もかなり高かったようです。
吉良氏は確かに斯波、畠山に次ぐぐらいの高い家格でしたが、ほとんど守護職にありつけなかったので、大名として成長することができず、分家の今川氏に凌駕されてしまいました。
管領はもともと執事と言って、足利本宗家の家宰です。ですから高氏といった家臣やほぼ家臣化した仁木や細川なんかがなっていたのです。高氏が没落した後、仁木氏と細川氏が執事職をめぐって争い、幕府内が混乱しました。将軍義詮は斯波義将を執事にして事態を収集しようとしますが、義政の父高経が「家臣がなる執事になぞなれるか」と激怒します。義詮が説得してようやく斯波義将が執事になりますが、これにより執事の格が上がり、管領と呼ばれるようになります。それとともに管領を多く輩出した細川氏の家格も上昇しらのです。
もし、室町幕府が最も安定していたころに細川、斯波、畠山 、 吉良、今川の当主が将軍の前に着座するとしたなら、席次は斯波、畠山、細川、吉良、今川の順番でしょう。

家に帰って小川信先生『足利一門守護発展史の研究』を引っ張り出して見ました。小川先生は「積極的に本宗足利氏を支援して活動した足利一門」として「斯波・石橋・吉良・今川・一色・畠山・岩松・桃井・渋川・石塔・上野・仁木・細川・荒川の諸氏がある」としています。家格の序列としてはこの順番です。このうち石橋、吉良、岩松、桃井、渋川、石塔、上野、仁木、荒川は観応の擾乱で没落しました。
調べたところ、細川、斯波、畠山 、 吉良、今川当主の極官は、室町中期でもほぼ同列の従四位です。また、織田信長が若い頃、主家である斯波氏と吉良氏の当主の会談を仲介したそうですが、二人が席次をめぐって口論になったという話があるので、席次は官位順になるのかもしれません。

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yam********さん

編集あり2012/1/1911:52:20

足利将軍家に男系が絶えた場合は、吉良・喜連川(関東公方家)・今川の順に、足利将軍家に入って将軍職を継ぐことになっていましたので、
>>>>>>>>
まったくのウソですね。成立年代不明(おそらく江戸末期)の偽書の今川記だか今川家譜にのってる話しで、徳川幕府の御三家をぱくったものです。

吉良氏は、足利氏の分家で、今川氏は、吉良氏の庶流にすぎません。分家や庶流が、本家に成り代わることなど、簡単にできません。三管領家のほうが上です。管領は将軍の補佐で、鎌倉幕府でいう執権北条氏に該当します。

↓歴史の本ってのは、参謀本部の日本戦史の桶狭間戦役の分析のとこに、今川家の血統うんぬんに載ってる話しを、小和田哲男が無批判に引用してるものですよ。小和田は今川信者のキチガイ。偽書の武功夜話を絶賛している信者。

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2012/1/1823:17:55

早くから別れたか、最近分家をしたかの違いです。
幕府の上下関係からすれば管領>地方の分家ですが。

cre********さん

編集あり2012/1/2015:20:06

例えて言うなら、江戸時代に於いて、幕府老中と御三家、ドッチがエラいのかと言う話に似ています。
建前上、将軍家の御一族衆の序列・席次・官位が上に来る事は有るかも知れませんが、幕政のヘゲモニーは管領が持って居ました。
今一つは、三管領家も元は足利家の眷族ですから、連肢・家門と其れ程立場が大きく違う訳では無いので、以上の事から考えれば、江戸時代よりも幕府閣僚の地位・力共に大きく且つ強かったろうと思いますが。

補足:
「応仁の乱以前〜」と言う本来の趣旨には反するかも知れませんか、応仁の乱当時の管領・細川勝元は従四位下・右京大夫(ウキョウダイブ若しくはウキョウダユウ)で、此れは管領家・細川家代々の官爵でした。同時期の大名・大内政弘は、多分乱後だと思うのですが、従四位上・左京大夫と成り死後には従三位を追贈されて居ります。位階勲等の上では、明らかに管領よりも上だったと言って良いかと思います。
只、殿中での席次と成ると又別だったろうと思われます。"席次"と言う事に成ると、其の時々の将軍家との親疎関係や年功序列等が加味され、可也流動的だったろうと言う事です。只、管領が大名より下座に成る事はまず無かったろうと思います。

後、主として足利義満の頃の話として、地方の大名家が"普通に"上洛する場合、人数は侍の数にして概ね二十から三十人。此れに対して将軍が差し当たって動員出来る兵力は二千から三千で、都に関する限り将軍の軍事的アドバンテージは圧倒的でした。そして此のアドバンテージは、嘉吉の変迄は一応保たれただろうと言う事です。
武家政治の本質が"武断政治=言う事を聞か無い者は殺す"である限り、将軍家との親疎関係は大名家の側にとっては"安全度"或いは"アブナイ度"の問題であって、単に政治的な立場に留まら無かったろうと想像されます。三菅四職の七家の守護国の可也が、比較的都からは近距離に在った事も偶然では無いと思われます。親疎関係=安全度=距離的アドバンテージと言え無くも無いだろうと言う事です。
だとすると、吉良・今川の両家が上洛するとして、途中如何しても管領守護国の尾張を通ら無いと言う訳には行か無い訳ですから、守護の斯波家が「駄目!」と言った場合、吉良・今川としては"力ずく"で突破するより無いと言う事に成ります。此の事を考えただけでも、吉良・今川サイドが幕府中枢に意見するが如き事は、現実的では無かったろうと思われます。

(|…o±\o

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