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NHK大河ドラマを見れば「保元の乱」を理解できますか? それともかえって混乱し...

kas********さん

2012/6/323:50:42

NHK大河ドラマを見れば「保元の乱」を理解できますか?

それともかえって混乱しますか?

その回は視聴率が低かったです。

第21回
2012.5.27放送

「保元の乱」


1156年(保元元年)7月10日深夜、ついに戦いの火ぶたが切られようとしていた。後白河天皇(松田翔太)方には平清盛(松山ケンイチ)以下300騎、源義朝(玉木宏)以下200騎などが陣をおく高松殿に集結。同じころ源為義(小日向文世)ら源氏勢や、平忠正(豊原功補)とその一党は崇徳上皇(井浦新)がいる白河北殿に入った。

義朝は死ぬ覚悟で戦う自分に今すぐ昇殿を認めろと主張、指揮をつかさどる信西(阿部サダヲ)は血気盛んな義朝にすぐさま昇殿と軍議への列座を認めた。そんな義朝に清盛は対抗心を燃やす。

藤原忠実(國村隼)は宇治で一人ぼう然としていた。藤原摂関家の栄華を取り戻すはずだったが、長男・忠通(堀部圭亮)は天皇方、次男・頼長(山本耕史)は上皇方に分かれて戦うことになり、悲痛な思いを感じていた。

それぞれの軍議の中で、天皇方の義朝と上皇方の源為朝(橋本さとし)は、ともに戦慣れした武士らしく、「夜討ちこそが最上策」と提言。夜討ちを恥ずべき行為とする頼長がこれを退けたため、上皇方は夜明けを待つことになった。一方、天皇方の信西は、勝つためには手段を選ばずとばかり義朝の案を取り入れる。信西は義朝の献策を褒めあげると、清盛も負けじと発奮する。

清盛は早速一門に指示を出す。平氏の武功をあげるため為朝を狙えと。伊藤忠清(藤本隆宏)とその弟・忠直(土平ドンペイ)、清盛の長男・重盛、次男・基盛が出陣。しかし弟の頼盛(西島隆弘)には、弱気になったものに兵は任せられないと即刻立ち去るよう命じた。

また、義朝のもとには、家臣・鎌田正清(趙珉和)とその義父・長田忠致(長谷川公彦)が加わった。陣立てをする清盛、義朝らの前に後白河天皇が現れ、じきじきに言葉をかける。戦のいきさつを改めて語り、武士たちの力で勝利することが新しき世の始まりだと鼓舞した。
後白河天皇の軍勢は三方に分かれて白河北殿に向かった。突然の敵襲に頼長は動転する。義朝は白河北殿に向かう途中、賀茂の河原で敵軍となった弟・頼賢(永岡佑)らと遭遇、白河北殿の南門では伊藤忠清・忠直が強弓の使い手・為朝と対戦した。為朝が射た矢は忠直のよろいを貫き、絶命する。一方、北門では清盛の前に叔父・忠正(豊原功補)が立ちはだかった。無駄な血を流したくないという清盛に射かける忠正。ふたりの死闘が始まった。



あらすじ
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/story/21.html

補足保元の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に
皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、
双方の武力衝突に至った政変である。

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ベストアンサーに選ばれた回答

sat********さん

2012/6/622:21:31

TBSの「今夜もヒストリー」で保元の乱の説明を先にさらっとやっていたのでなんとなく理解できました。

しかし、大河ではずいぶんあっさりはじまって、さくっと終わったなぁって思いました。

質問した人からのコメント

2012/6/7 06:24:45

驚く 「今夜もヒストリー」のほうがわかりやすい。

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sto********さん

2012/6/422:11:17

質問を読みましたけど、私は大筋はそれでいいと思いますよ。
天皇方に源(新田)義康の百騎がいないぞとか指摘すればきりがなくなります(^^;)

god********さん

2012/6/411:46:23

政治力学や、対立関係はある程度史実とされるところに基ずいていると思いますが、完全に真に受けるのは止めた方がいいと思います。

jalan00022392さんの言う通り、清盛は白河院の落し種となっていますが、あくまでも一説です。
それから忠正一党が、崇徳上皇方に付いたのは、『上皇方に付こうとした弟頼盛を庇って』となっていますが、これは完全に創作です。忠正は元々忠盛・清盛親子との関係は芳しく無かったと言われてます。また忠正一党は藤原頼長の家人でしたから、頼長が崇徳上皇に付けば、忠正も崇徳上皇方に付くのは極自然な流れです。
更に、頼盛の母宗子(池禅尼)は崇徳上皇の皇子、重仁の乳母で、忠盛自身も崇徳の後見人を勤めていたんです。そう言う背景が有り、平氏がどちらに付くのかと言う選択を迷った訳ですよ。

乱終了後の忠正の扱いもかなり美化していますが、これはほとんど創作の可能性が強い。ある作品は忠正処刑のシーンで、忠正と清盛がお互いを酷く罵り合って処刑されています。そもそも清盛は忠正の処刑を願っていたところが有るんです。と言うのも、義朝による源氏台頭を恐れた清盛が、自ら身内に厳罰を課す事で、義朝の源氏助命を不可能にする目的が有った。義朝の一族はことごとく崇徳側に付いて居るわけですから、これを期に源氏勢力を衰退させる事が出来て、身内の邪魔者を消す事が出来る正に一石二鳥だったんですわ。

源氏方も、義朝は為義の嫡子では無いと言う説が有ります。為義は義賢を嫡子と考えていたと言われています。だから義朝は自分で、地盤を作らなければならなかった。だから関東に下向したとも…。また別の見方で、為義は京及び、その周辺は義賢に、関東を義朝に委任させたかったのではないか。と言う説も有ります。そう言う背景も義朝が天皇方に付いた一因の可能性も有る訳です。

les********さん

2012/6/408:04:44

崇徳天皇と、藤原頼長の本を別々に読むと、保元の乱の背景と力関係がよくわかると思います。

流されて恨んだ崇徳天皇は「怨霊になった天皇」を書いた竹田さんによると、怨霊になって天皇(王家)の地位を地に貶めてやると言ったとか言わなかったとか。この時代のあと、武士の世になり、王家の朝廷はお飾りになっていきます。

jal********さん

2012/6/407:25:59

大河ドラマは、史実と違い、かなり美化したものが多いです。
また、歴史とは、未来の人が伝えるものであり、タイムマシンがないかぎり、本当の歴史は分かりませんよ。
だから、歴史には異論があり、解釈が人により違います。
例えば、藤原頼長は、悪左府とか言われましたが、当時の貴族の中では、革新的すぎて、誰も理解できなかったとも言われています。
大河ドラマの中では、強引でアホな貴族のイメージですが、日記も残して、当時の風俗風習を過去に残した偉大な人物とも言われています。

つまり、大まかな歴史のながれば間違っていないし、敵味方も間違っていませんが、なぜ味方についたかなどは、あくまで想像でしかありません。
そもそも清盛が、白川院の落とし子であるのが前提ですが、それも一説に過ぎません。
清盛の異常な出世が、その理由の一つとされていますが。
平忠正が上皇側についた理由が、清盛の出生の秘密とありましたが、清盛が忠盛の実子なら、違う理由になりますよね。

だから、あくまで仮定の上に仮定を重ねて、歴史を面白く描いたのが大河ドラマだから、歴史から離れていなければ、こんな切り口もあるかな、みたいに楽しんでください。

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