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尼子氏は大大名だったのになぜ滅亡してしまったのですか?

kai********さん

2012/8/2418:53:00

尼子氏は大大名だったのになぜ滅亡してしまったのですか?

毛利など足下でしかない時代もあったはずなのに。

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f27********さん

2012/8/2421:08:39

巷間云われるところでは、「全盛期を築いた尼子経久の後を継いだ孫の晴久は勇猛ではあったが、祖父ほどの知略はなく、毛利元就の謀略に引っ掛かって、有力な一族である新宮党を謀叛の疑いで滅ぼすなどして、力を削がれた…」、などとされています

但し、尼子が大勢力を築いた時代も、単に風を見て味方に付いていた国人領主が多かった為、特に出雲以外の領主達は尼子の勢いに陰りが見えればたちまち離反してしまったのでしょう

大内領を併呑して強大化した毛利に寝返る者も多かったわけです

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yai********さん

編集あり2012/8/2515:39:22

>>尼子氏は大大名だったのになぜ滅亡してしまったのですか?

命脈は残っていますが「大大名」として滅亡したとして回答します。

●1:一族同士が結束できなかった。
「尼子晴久」による「新宮党」の粛清などに見られるように「尼子一族」同士が
結束できず、それらを行う政策や体系化もありませんでした。

「足利連枝」「徳川御三家」「毛利両川」など一族が結束し
「主家」を奉る政策などあれば「権力」は長続きしたでしょう。

●2:国人衆(外様)を大事にしなかった。
「1」の延長から「新宮党」支配下の「国人衆」への支配が薄まり、
また「尼子家支配下」の「国人衆」同士が互いに争う状態を作ってしまいました。
またそこから「国人衆」との繋がりを強固にする政策も見られず
「中央集権化」を推し進めたために支配を弱め結果、滅んでいます。

「頼朝の御恩と奉公」「鎌倉幕府の御家人13人衆協議制度」
「足利守護制度」「徳川大名制度」「徳川老中制度」「毛利傘型連判」
「毛利五奉行制度」などなど「国人衆(外様)」との関係を強化する
政策が必要でした。
※あくまで「1」の「一族との結束」をなした上です。
-----------------------------------------------------------------------------------------
上記「尼子晴久」のように「織田信長」「武田勝頼」など
「中央集権化」を推し進め「領土拡大」をした「戦国大名」は
多いのですが「1、2」への対策となる「政策」が無いため
後に瞬く間に「権力」の座から失墜しています。

「1、2」の政策はどちらかが欠けても宜しくは無く
同時に体系化することが大事なのでしょう。

戦国時代では「徳川家」「毛利家」「島津家」などが
「1、2」の政策を取れた成功例であり
数々の苦難を乗り切り「権力、支配」を保持しています。

sto********さん

2012/8/2503:31:53

尼子経久は戦歴からすれば毛利元就以上の名将ですが、領国経営には旧来の考え方で政治を行いましたので国人衆を経久自身の人間的魅力で従わせていたと言ったところでしょうか。
ですので1541年に尼子晴久が家督を相続した時点で、従う国人衆の中には尼子家から離れる人もいたわけで、状況的には孫の晴久だけが悪いわけではないのですが。
毛利元就は国人衆から中国地方の覇者というべき地位にまで上りつめたわけですが、その過程で権臣の井上元盛を誅して家臣団の強化を計っている事、孫の輝元の妻に当時不釣り合いと言われたのにも関わらず信頼した宍戸隆家の娘を充てた事、毛利両川という叔父を後見役にして事など元就は色々と手を廻していましたが経久はそのような事はしていなかったので、尼子家の逃亡を早めた理由のひとつだと思います。

r18********さん

2012/8/2423:15:58

婚姻・縁戚関係の破綻から、
国人領主の離反をくい止めるコトができなかったから。

尼子氏も毛利氏と同じ。国人領主のトップでしかない。

経久の代に興隆し、地域の国人領主のトップとなったが、
家臣にはなってもらえなかった。
そのため、甲斐武田氏のように外に敵を求めるコトで、結束力を高めようとしている。
経久は守護代出身で、一度排斥された後に反乱の形で成り上がってる。
典型的な下克上であり、出発点は毛利氏と変わらず、
領国支配も大差なかった。
(つまり、支配地域のほとんどは、国人がそれまでどおりに治めた)

晴久の代には、本格的に中央集権化を図ったが、失敗した。
そればかりか、強引な権力集中により国人領主から反感を買い、
その隙を毛利元就に突かれるカタチになった。

なお、経久と元就は共に、
政略結婚や離間策、調略、流言飛語などの「謀略」を得意とした『謀将』である。
その点でも、共通点が多かった。
まぁ、経久は愚痴っぽくはなかったんだろうが。
(元就はボヤキ癖があり、愚痴が多く、くどくど説教大魔人)

要するに、毛利氏も元就亡き後、
うっかりすると尼子氏の二の舞になる可能性は、大いにあったと言える。

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