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オオナムチについて。 福岡県朝倉市にオオナムチ神社という神社があります。 ...

ros********さん

2012/11/1323:45:16

オオナムチについて。

福岡県朝倉市にオオナムチ神社という神社があります。

質問します。
①このオオナムチ神社は、日本で最も古い神社だと聞きましたが、これは本当ですか。
逆に言えば、日本で最も古い神社は、どこなのでしょうか。

②オオナムチ⇒オオクニヌシノミコト
として同一視されているそうですが、オオナムチ自体は、何の宗教のどんな神なのでしょうか。

日本の古代史に詳しい方は解説をお願いします。

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aki********さん

2012/11/1810:25:00

日本最古の神社は、縄文時代の日本に建っていた、という説を採らせて頂きます。天津神が渡来する前から、縄文時代の日本にも神社があった、一万年の歴史を持つ、と思います。

伊勢神宮の内宮などに、心の御柱と呼ばれるものが建っています。これに注目します。廣田神社に天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とあります。撞賢木厳之御魂は、撞=依り憑く、賢木=御神木、厳之御魂=男神の魂、です。その後に続くのは、おそらくこの神を奉斎した巫女の名前。御神木に依り憑く男神の魂を奉斎する巫女を神格化した神、と読めます。男神が依り憑く御神木こそが、伊勢神宮の内宮にある心の御柱と考えます。

神は一柱二柱と数えます。これは、神が宿る御神体の御柱を数えるところから来たもの。三内丸山遺跡や諏訪の祭りを観察すれば、神が依り憑く巨大な柱の存在が明確になってきます。三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉です。数千年から一万年前まで遡れるかもしれません。

猿の子供のメスは、木の枝を赤ん坊に見立てて、お人形遊びをして、母親の心を学んでいきます。宗教を生みだすアニミズムの発想の原型は、母親の尻尾を獲物に見立てて追い回して遊ぶ、子猫にも認められるそうです。哺乳類がもともとアニミズム的な発想をする習性を持つ動物だとすれば、人類はまだ猿だった時代から、原始宗教を持っていた可能性があります。猿の時代から依り代として使ってきた木の棒を巨大化して大地に建てれば御柱です。これが神社の原型です。扶桑信仰の扶桑は、日出国の日本に縄文時代から建っていた。これは、間違いないと思います。それもおそらく最初は蛇と関わりが深い蒲葵だった。しかし、現在の神社のような建築物はまだなかった、御神体の柱だけだった可能性もあります。

オオナムチの蛇神のほうですが、縄文の模様を観察していると、縄模様に蛇の頭が付いたものが散見されます。たしかに蛇は土坑祭祀と関連があるのかもしれません。土坑に見立てた縄文の壺の穴の周囲にも蛇がトグロを巻いて守っていたのだと思います。壺に入れたものに腐敗などの邪気が寄り付かないように。縄文人達が注連縄模様を描いたものを、考古学者が縄文と名付けたのが真相と思います。

壺の中で蛇を飼う昔話は、常陸国風土記のヌカヒメ伝承があります。蛇を飼育する容器が神聖視されて祀られていたことが分かる伝承です。

鏡とは、カカメが転化したもので、カカ=蛇、メ=目で、本来は蛇目のことだったそうです。鏡餅は、カガ=蛇、ミ=身で、蛇がトグロを巻いた姿に見立てて飾ってあるものと考えられます。また神社の御神木とされるナギ(梛)の木は、ナギ=蛇の木だったと思われます。

オオナムチは、政争に敗れて出雲に島流しになる前は、縄文として描かれていた時代からの日本の神だった、と思います。日本神道には渡来系の天津神だけでなく、縄文時代からそのまま引き継がれた在来系の国津神の系列があり、オオナムチは後者かと。ただ、大陸の扶余に渡る前の巫女達が、縄文時代の日本に存在した可能性もあり、両系統は同根で、明確な区分はないのかもしれない。すでに日本最古の神社や信仰の姿を示す証拠品は出土しているものの、現代人はその情報をまだ整理しきれていないと考えます。

銅鐸に刻まれた、太陽の三態を表す記号、朝『\』昼『○』夕『/』とか、火起こしの回転運動に由来する、火(日)の神の力を召喚するパワーを表す、左右の連結された渦巻とか、いろんなものが残っているものの、我々はまだその信仰の姿を十分読み解けていません。

質問した人からのコメント

2012/11/20 22:24:31

感謝 皆様、大変ハイレベルな回答をたくさん頂きましてありがとうございました。全員BAにしたい気持ちでいっぱいデス。大変、勉強になりました。神社とは神道とは何か、根本的な基本的な部分から勉強しなおしたい気持ちになりました。またいろいろ教えて下さい。ありがとうございました。

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aka********さん

編集あり2012/11/1801:56:35

神道施設の成立過程から順に明らかにしていきましょう。

神道は、八百万の神々を祀っていますから、多くの信仰が習合しています。そのほとんどは自然崇拝と祖霊崇拝です。自然崇拝は霊山や島や磐座や塚や御神木など、自然物が対象(御神体)ですから、本来は建物を建てて祀るものではありませんでした。神社は社(ヤシロ)とも言い、元は屋代です。代(シロ)とは、お祓いして清められた神が降臨する場所のこと。そこに建てられるのが屋代です。古い時代は仮の宮とされ、神事のときだけ存在して、用がなくなれば解体されていました。

対して、祖霊崇拝の場合は、生前の業績を称えて祀るのが基本ですから、生前の住まいである宮を子孫が大切に保存したり、霊廟を建てることもありました。神宮と神社の違いは、神宮は貴人の住まいが原点というところです。一般的に、神社には依り代となる御神体を祀る神棚の類はあっても、神様が寝起きしたり座る場所はありません。しかし、祖霊崇拝の場合は、依り代となる現人神(生き神)の巫女が寝起きしたり座る、神座がなくてはなりません。両者の違いを、皇室関係の神社とそれ以外と解説するケースが目立ちますが、神道施設が生まれた過程から見れば、不自然な俗説です。

神道のルーツは扶余の名前の由来になった扶桑信仰にあります。扶桑とは日が昇る場所に立つ同根二柱の神木の夫婦神のことで、現在はイザナギとイザナミと呼ばれていますね。扶桑信仰を作った人々は、後の狛犬のモデルになった狼犬を連れて、日本から大陸に渡っています。おそらく縄文時代の鬼界カルデラの大噴火のときに、噴煙による日照条件の悪化に伴う食糧危機を避けるため、青森県まで逃げて、そこから海外脱出した人々です。大陸から祖先の国を拝んだのが、扶桑信仰の始まりだったと推測できる神話が、日の巫女の王の家の神庫に残っています。扶桑信仰は今でも、初日の出を拝む大和民族の風習として残っていますね。つまり、神道の朝日を拝む歴史は七千年程度あると考えられます。

その長い歴史から見ると、神社という言葉は、かなり新しい時代に生まれた高句麗語&日本語です。扶余から派生した高句麗も、太陽信仰の国でした。神庫に残る故老の伝承を総合すると、高句麗は日の巫女の王が宮を構えていた五女山の神宮(高天原)の境内都市から生まれているようです。天照大神の原型となった女神は明姫(アカルヒメ)と言い、東明聖王の母とも妹ともされています。夜明けの情景から太陽が昇る→夜明けを神格化した明姫から太陽を神格化した東明聖王が生まれてくる→天照大神から皇統が生まれた、というのが、天津神の一族が日本へと渡来してもたらした、祖霊崇拝の日拝の神事を起点とする太陽信仰の原初の姿です。

高句麗の国教の姿を伝える中国の文献には、国母とその息子の王の二霊廟を祀っているとあります。あるとき高天原に難民が押し寄せて、国難を解決するために、明姫は豊葦原瑞穂の国(日国)への里帰りを託宣しました。渡来後の宮はヒメコソと呼ばれたようです。これを古い朝鮮語で「姫の社」という意味だと指摘する人々がいますが、私達は神宮を指す古い高句麗語と認識しています。つまり、最も古い日本の神道系の建物は、明姫を奉斎する日の巫女達が住まう神宮で、最初の入植地姫島のヒメコソだった、ことになります。

オオナムチは大国主の別名です。出雲の神々は四国に入植した渡来氏族が奉斎していた神々で、畿内に移動して大和朝廷の基盤を作りましたが、政権闘争に敗れて出雲へと島流しになっています。前方後円墳の原型は、近畿地方に出現するより百年古い時代から四国で痕跡が認められます。また出雲の神々の信仰実績は四国から見つかっています。つまり、オオナムチは、明姫の日国への里帰りの託宣に従って、九州から四国にかけて入植した人々が奉斎していた蛇神の名残りです。

蛇信仰は纏向型祭祀(土坑祭祀)や東盟祭用の隧穴に棲む蛇から生じたもので、注連縄は雌雄一対の蛇の交尾を表したシンボルです。大地母神の多産の象徴であるホトを表しているのが隧穴で、トンカラリン遺跡などにも見ることが出来ます。天岩戸伝説も隧穴信仰から派生しています。鏡の光を当てると、天照大神がなんだろうと思って岩戸から出てきたエピソードがあります。これは、日矛鏡で陽光を反射して作った、太陽神の男性のシンボル(日矛)の光で、多産を祈願して大地母神のホトを突く神事が元になっている表現です。箸墓古墳のホトを箸(隧神の男性の象徴の木の棒)で突いたという伝承もこの系統です。天照大神が隧穴(天岩戸)から出たとき、再び入らないようにと注連縄を渡したことからも、隧穴とそこに棲む神遣の蛇への信仰の関係が見て取れますね。隧穴と一対の男神のシンボルとして蛇信仰が考えられることもあり、蛇神のオオナムチも古い隧穴信仰の名残りの一つなのです。

zan********さん

編集あり2012/11/1506:05:47

>日本で最古の神社帳(延喜式神名帳)に名前があるがこの神社帳には2861も書かれている。
筑前町は三輪町と夜須町が平成の大合併で出来た合併後の町名です。
つまりオオナムチ神社があったのは三輪町(ミワと呼ばれた地域)ということです。
古くからミワと呼ばれていて、北側に夜須町(ヤス)があります。
この地名が奈良の三輪山より古い可能性もあります。そうなれば日本最古の可能性も高い。<

このように、rivoisuさん もおっしゃっていますが、私も上記が正解だと思います。

『万葉集』の【裏】は、「暗号」で以って、
【●鏡圏】「邪馬臺(やまと)国トカラ列島の宝島(会稽東冶の東)の
臺与(とよ)の後身、【西暦639年に、臺国と倭国が合併建国し、
(皇祖神★天照大御神)大倭国→ 日本国・九州近江&豊国王朝・仏教の
●蘇我大王家〔秋〕
(二度即位の同一人物・雄略天皇&)聖武太上天皇の勅撰史書】に
なっています。
大国主命から「国譲り(西暦646年の大化改新紹)」された、
天照大御神(天照近江神)。


他方、『古事記』は、【▲矛圏】「邪馬壹(やまい)国・筑紫平野」の卑弥呼の後身、
【石上(いそのかみ) 布留(ふる)、即ち、<古>の<事>を<記>した、
《祖神は、卑弥呼→》倭国・九州壹国(伊奈)&筑紫王朝
(桃や閻魔大王で有名な)道教(拝火教)の、▲物部氏<夏>の史書】になっています。
【▲矛圏→ ▲剣圏】「★大国主命(オホナムチ)」は、
【(合併した)大倭国の、倭国側・道教の▲物部氏の統治者・孝徳天皇】です。
なお、「筑紫平野に在った出雲」を「山陰の出雲に移し」、出雲大社を建てています。


君臨者・推古太上天皇(使者・小野妹子。額田王)・大田(十市)皇女
●蘇我大王家(秋)の、
(倭王・多利思比孤→)【▲剣圏】の統治者・天武天皇▼鷹派物部氏(夏)に依る、
毒殺歌
みもろの三輪の神杉已具耳矣自得見監乍共寐ねぬ夜ぞ多き
高市皇子・(★素戔鳴命)天智系(春)■大伴氏(巻2・156)
【↓訓訳・銀河 秋彩】
みもろの三輪の神杉夢にだに見むとすれども寐(い)ねぬ夜ぞ多き
高市皇子(巻2・156)
【↓李 寧煕(イ ヨンヒ)訳】
お墓の土が涸いています。逝かれるのですね、貴女は。直ぐまたお会い出来るよう、
お祈りしましょう。
【天武が、推古太上天皇(額田王)・大田(十市)皇女に】毒を飲ませ、
とうとう逝かせてしまいました。

神山(みわやま)の山辺真麻木綿(まそゆふ)短か木綿(ゆふ)かくのみ故に長くと思ひき
(巻2・157)
山吹【黄】の立ちよそひたる山清水【泉】汲みに行かめど道の知らなく
高市皇子(巻2・158)

なお、雄略天皇(ヤマトタケル。聖徳太子)に成敗された、
【▼剣圏(高麗剣)】「ヤマタノオロチ」は、
【(復活倭国)天武天皇▼鷹派物部氏の揶揄】。
倭国の分家・高句麗の淵蓋蘇文(倭王・多利思比孤)が、大海人皇子(天武天皇)。

以上いずれも、九州説が、正解で、畿内説は、成立しません。

oni********さん

2012/11/1413:26:42

朝倉市の近くのオオナムチ神社については分かりませんが、 オオナムチを
ご祭神とした神社は全国各地に多数あります。

①全国の神社の大半が出雲系であり、中でもスサノヲやオオナムチを祭った所が多いからです。
その中でも奈良県桜井市の三輪明神(おおみわ神社)は最古とされ、三輪山をご神体として本殿のない

祭祀形態を今も踏襲しています。神武天皇以前からの信仰ですから、
天皇家の伊勢神宮よりも歴史が古いです。

ただ出雲族は大和朝廷から幾度も弾圧されたので各地に流散しました。
そうした所で元の祖先神を祭ったのが今見る形となっています。

②その結果として、各地でオオナムチの別名となった。彼は少なくとも七つの別名がある。
従って⇒オオクニヌシノミコトと同一です。

オオナムチ自体、何の宗教のどんな神なのか。 と言えば、無論和人の宗教ですから、言わば
和教であり、神代から続く原日本人の元の教えです。

ただ今の神社神道とはやや違う。先の回答にもあったように、天神地祇の分類では
地祇、つまり数多の国つ神の王でした。本来の日本は数多の国つ神が各地で地方分権で統治し、

天皇家は統治しませんでした。天皇家は暦法だけを支配し、国土の支配や人民管理をしなかった。
例外的に皇子が新宮を造るときだけ、天下りの地を国つ神から借用して来たのです。

riv********さん

2012/11/1409:12:19

まず「オオナムチ神社」は福岡県朝倉市ではなく福岡県筑前町だと思います。
(ほとんど朝倉市との境にあります)
宮司さんがインタビューでそう言っていたのを聞いたことがあります。

日本で最古の神社帳(延喜式神名帳)に名前があるがこの神社帳には2861も書かれている。

筑前町は三輪町と夜須町が平成の大合併で出来た合併後の町名です。
つまりオオナムチ神社があったのは三輪町(ミワと呼ばれた地域)ということです。

古くからミワと呼ばれていて、北側に夜須町(ヤス)があります。
この地名が奈良の三輪山より古い可能性もあります。そうなれば日本最古の可能性も高い。
つまり邪馬台国九州説(邪馬台国東遷説)に繋がる話になります。

朝倉市も含め弥生時代の遺跡の多い地域で、古くから開けた地域だったと考えられています。

「日本最古」であることは証明できないが否定する事もできない。

nor********さん

2012/11/1406:49:53

①について、私見ですが…

最古の神社と由来に書いてある神社は多そうな気がします。
古代に発展していた地域にある神社にありそうです。

私的には、日本最古の神社は、出雲大社かと思います。
オオナムチが大国主命になってからですが、瓊瓊杵尊が天孫降臨してきて、支配者ではなくなった大国主命が自分を祭る社を建てるように頼んでいます。
神社=神の住まいと考えると、出雲大社がそうではないかと…

ただ、これは出雲の神社なので、天皇家からみると、伊勢神宮が最古になるかと思います。

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