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サラエボ事件について

far********さん

2012/12/1501:05:15

サラエボ事件について

サラエボ事件を簡単にまとめると、「オーストリアの皇太子がサラエボという当時オーストリア領(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中に、セルビア人によって暗殺された事件」でよろしいでしょうか?

このまとめが合ってると仮定して2つほど質問があります。
1、なんでオーストリアの皇太子がサラエボにいたんですか?
2、セルビア人とは現ボスニア・ヘルツェゴビナ領周辺に住んでいる人達と解釈してよろしいのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

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na_********さん

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2012/12/1514:09:58

>1、なんでオーストリアの皇太子がサラエボにいたんですか?
サラエボは、ボスニアの主都です。
サラエボ事件を考える時に、ボスニアとはどんな場所だったのかを知っておく必要があります。
ヨーロッパのキリスト教世界は、カトリックを中心とする地区と、正教会を中心とする地区があります。
ボスニアは、カトリックも正教会も、決定的な影響力を持つことが無く、カトリック教徒、正教徒、ボスニア独自のボスニア教会の信徒が渾然としていた地域でした。
カトリック教徒は、クロアチア人、正教徒は、セルビア人、ボスニア教徒は、ボスニア人と言い、基本的には同じ民族でしたが、クロアチア人は、ハンガリー支配下のクロアチアとの関係が深く、セルビア人はセルビアと、ボスニア人は、トルコ支配下でイスラムに改宗し、トルコとの関係が深い人達でした。

トルコがバルカン戦争に敗れると、ボスニアの帰属が問題となります。
クロアチアを支配するオーストリア・ハンガリー帝国は、ボスニアをオーストリア領にしようとします。
ボスニア内のクロアチア人も同調しますが、セルビア人は、セルビアへの帰属を望みます。
そんな状態で、オーストリアが強引に併合してしまったため、ボスニア内のセルビア系住民が反発することになります。
オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンドは、その併合の式典に参加していて、暗殺されました。
当初から、サラエボにてなにかの事件が起こりそうだという噂が広がっており、一部には、皇太子の出席を見送る話もありましたが、フランツ・フェルディナンドの強い要望により、式典に参加することになります。

フランツ・フェルディナンドが、強くサラエボ行きを主張したのは、妻ゾフィーのためでした。
ゾフィーは、チェコ人の下級貴族の娘で、オーストリアでは、皇太子妃としてみとめられず、2人の間に子が生まれても、皇位継承者として認めないことにされ、公式の場での同席も禁じられていました。
フランツ・フェルディナンドは、妻の影響もあり、オーストリア支配下のチェコを独立させ、オーストリア・ハンガリー・チェコ帝国にする考えを持っていました。
そのため、オーストリアの宮廷では、フランツ・フェルディナンドが皇帝になる事を阻止しようとする勢力が大きな力を持っていました。
反フランツ・フェルディナンド派によるものなのかどうかは分かりませんが、サラエボでの式典に、妻ゾフィーと同席できることが決まったため、フランツ・フェルディナンドが、強引にサラエボでの式典に参加することにしました。

>2、セルビア人とは現ボスニア・ヘルツェゴビナ領周辺に住んでいる人達と解釈してよろしいのでしょうか?
セルビア人というのは、南スラブ人の中で、セルビア共和国の大半の住民と、文化的に共通の人達になります。
セルビア共和国以外では、ボスニア連邦内のスルプスカ共和国に主に住んでいる人達を言います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%97%E3%82%B9%E...

それ以外では、コソボ、モンテネグロ、マケドニアなどにも住んでいます。
クロアチアにいたセルビア人は、クロアチアによる民族浄化により、ほとんどいなくなっています。

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usa********さん

2012/12/1511:26:54

>「オーストリアの皇太子がサラエボという当時オーストリア領
>(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中に、セルビア人によって
>暗殺された事件」でよろしいでしょうか?

ちょっと判り辛いのですが、
オスマン帝国から独立した国に「セルビア」という国がありました。
一方で民族としてのセルビア人というのもいました。(宗教的に言うとセルビア正教徒)
セルビア国民であるセルビア人と、民族としてのセルビア人がいたわけです。
民族としてのセルビア人はサラエボにも住んでいました。
そしてサラエボはオーストリアに併合されていたわけで、当時はオーストリア国内です。
フランツ・フェルディナントを襲ったのは「ボスニア出身サラエボ在住セルビア系オーストリア人」です。
その背後にはセルビア(国)の青年将校らがいたため、セルビア(国)関与が疑われたという経緯です。

1、なんでオーストリアの皇太子がサラエボにいたんですか?

フランツ・フェルディナントが嫌われ者だったからです。
チェコ人の妻ゾフィーと貴賤結婚しスラヴ民族寄りの考えを持ちハンガリー大嫌いで宮廷嫌いで人望も人気も無い皇太子とすら呼ばれない人物。(「皇位継承者」という変な呼ばれ方をしてた)
チェコはハンガリーの属国で、オーストリアから見ると属国の属国(二重帝国になったのでハンガリーは属国ではないという建前がありますが)。
そのチェコ人の妻を周囲の反対押し切って結婚し2人の子供には皇位継承権すら無い。
妻の影響で反ハンガリーでチェコ独立賛成派に傾倒。
激ラブな妻に対して敬意を払わない貴族連中も宮廷も大嫌い。
皇帝になる予定の人物がオーストリア=ハンガリー帝国を解体しかねないトンデモな人だったわけです。
オーストリア国内では総スカン状態なフランツは憂さ晴らしにサラエボの軍事演習視察という仕事に飛びついちゃった。
名目としては「独立運動活発なサラエボに皇族が行ってオーストリアの威光を思い知らせてやんよ」というものなんですが、実際には「不人気皇族は田舎の視察でもしてろや」というドサ周り、夫婦にとっては「田舎で皇太子皇太子妃ごっこしたいお」というものでした。
何しろ妻ゾフィーは公式行事に列席が許されなかったり末席に追いやられたりしてるんで、夫婦二人でパレードなんてウィーンじゃまず出来ませんから。

2、セルビア人とは現ボスニア・ヘルツェゴビナ領周辺に住んでいる人達と解釈してよろしいのでしょうか?

あの辺は複雑なので、そこに住んでるからとかそういう解釈ではかえって判り辛いかと思います。
つい20年くらい前まではあの辺はいくつかの国がまとまってユーゴスラヴィアとなっていたのですが分裂して内戦になって民族紛争になって民族浄化で大虐殺まであった地域。
それだけ民族入り組んでいるということなのです。
むしろセルビア人はセルビア正教徒と考えた方が判りやすいかもしれません。

sai********さん

編集あり2012/12/1608:35:56

サライェヴォ視察は妻のためではありません。

=====

英語ですけどつい最近本が出ました。(親独の)イギリス人歴史家による第一次世界大戦とサラエヴォに付いて。興味があるなら読んでみては。私の意見とはかなり違いますが、100年経った今の世界状況にも照らしてあるので勉強にはなるでしょう。
Sleepwalkers
http://www.amazon.co.uk/Sleepwalkers-How-Europe-Went-1914/dp/071399...

もっと中立的な立場ならDavid Stevenson の「第一次世界大戦」をお勧め。
http://www.amazon.co.uk/1914-1918-History-First-World-War/dp/014026...

===

>「オーストリアの皇太子がサラエボという当時オーストリア領(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中に、
>セルビア人によって暗殺された事件」でよろしいでしょうか?

暗殺団はボスニア人です。といっても「セルビア系」ですが、国籍的にはセルビア人ではありません。ボスニアはオーストリアの支配下にあったので、暗殺団の青年たちはオーストリア臣民であった。

生まれ育ったボスニアから国境を越えてセルビアで教育を受け、(セルビア側が提供した)武器を持ってサラエヴォに帰ってきたのです。今風の言葉を使えば「自爆テログループ」ですね。

したがってオーストリア皇太子(正しくは皇位継承者)は自分の臣下に殺されたのであり、見た目はオーストリアの内政問題です。セルビアに責任を取らせるべく最後通牒を突きつける時には、内政を外交に振り替えたことになります。通常は出来ない相談です(やりかねない国は今もいくらでもあるけどね)

さて答えですが

1. 上にもかきましたが、ボスニアはオーストリア領でした。その皇太子が訪れるのに本来理由は必要ないですな。自国内ですから。問題だったのは訪問の詳細がかなり前から公表されており、しかもビックラするぐらい手薄な警備だった事です。オーストリア側とてアホじゃないんで、セルビア系ボスニア人による襲撃の可能性は承知していたのですが、わかっていたにもかかわらず対策をとらなかった、と。

2. 1990年代のバルカン紛争で、周辺に散らばっていたセルビア人がかなりセルビア内に移動しました。現在セルビア人が多く住むのはセルビアです。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内のセルビア人共和国にもけっこう住んでいますが、数で言えばセルビア在住のセルビア人が最も多い。

ここ読めばわかる
セルビア人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E...
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%8B%E3%82%A2%E...

s11********さん

2012/12/1503:15:17

1.当時のオーストリアは国内は相も変わらず宮廷政治で、他の国が産業革命、市民革命を行って近代化を進めているのに対し、時代劇の舞台のような政情で当然国民の不満は出ていました。付け加えて少数のドイツ(オーストリア)人、ハンガリー(マジャール)人が、多数のスラブ系民族(ポーランド、チェコ、スロベニア、クロアチア)を支配していたため、その矛盾を国外に目を向けさせ、不満をそらせようと画策の為、オーストリアの統治権でありながらトルコ領であるボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、完全に自国の領土に組み込み、パン・スラブ主義のもとまとめようとしていたセルビアとかに対し、デモンストレーションのためのパレードを強行しました。
2.セルビア人はの大半は、現セルビア共和国やモンテネグロに居住しています。ただ、現在のクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの境が、かつてオーストリアとオスマントルコの国境だったこともあり、両国がセルビア人を国境に連行して居住させ防衛にあたらせました。このためセルビア人はクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナにも人口比率では多数派ではありませんが多く住んでいます。

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