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いつもありがとうございます。 幕末~維新期の前田家についての質問です。 藩...

uto********さん

2013/1/2510:26:23

いつもありがとうございます。
幕末~維新期の前田家についての質問です。
藩論がまとまらず、最後は新政府側に付き、長岡戦争へと派兵をしていますが、

この際の藩内での抗争や粛清と言った騒動は何かあったのでしょう?

また、chikamo0304さん個人として前田家の幕末~維新期は
どの様に見ていますか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

chi********さん

編集あり2013/1/2611:57:46

いつもありがとうございます。
幕末の前田家ですか。全然詳しくなくて申し訳ないですが自分ちにある本を引用させていただきます。
「前田一族」から。

まず一つ目の質問から。新政府軍に付くと決めてからは大きな粛清は無いようですが、禁門の変の後にかなりの粛清がありました。
最後の藩主前田慶寧公の側近には勤王派が多く自身も尊王攘夷の方針だったので考えとしては長州に近いんですよね。
禁門の変の際に慶寧公は京都警備を命ぜられてたのですが、近江の海津(加賀藩領)に戻ってしまったそうです。
父、斎泰公は幕府、朝廷からの叱責を恐れて慶寧公の側近の勤王派を粛清していきました。
慶寧公は謹慎。家老松平大弐は自刃。他にもたくさんいるのですが省かせていただきます。これで一気に加賀藩の勤王派は壊滅して長州征伐などに積極的に参戦していきます。

二つ目の質問ですが、自分としては慶寧公がリーダーシップを取って藩論をまとめることが出来ていたらひょっとしたら名君として名を残していたのかなぁなんて思いますが、悲しいかな藩の実権は父、斎泰公が握っていました。斎泰公は公武合体派。
大藩、雄藩でありながら幕末の動乱期に目立った功績が残せなかったのは残念ですが逆に大藩であるので幕府との結びつきも深いですから立場的に難しかったのかなぁと思いました。
まぁでも、いろんな意味で加賀藩ぽくていいです(笑)。まつ(芳春院)の「御家第一」は幕末まで守られました。めでたしめでたし(笑)。

質問した人からのコメント

2013/1/31 08:55:08

驚く 詳しくご回答いただきまして、ありがとうございました。
家老の自刃と言った騒動は起きているのですね。慶寧公の名前や肖像は
知っていたのですが、あまり実権が無かったのですか、勉強になりました。
「慶」の偏諱だけにグダグダなトコも見習ってしまったのでしょうかね。
とは言え、石川県が日本海側では有数の都市として、今も繁栄をしているのは
前田家の判断が正しかった事の証なんでしょうね。
ご回答、ありがとうございました。

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