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大阪の陣で、冬の陣による戦闘は和睦にて終わりました。そこから、夏の陣に向かっ...

sok********さん

2006/12/2014:46:34

大阪の陣で、冬の陣による戦闘は和睦にて終わりました。
そこから、夏の陣に向かっていく中で、
豊臣氏は残ることが出来る選択肢はなかったのでしょうか?
大阪からの退去や浪人の放逐など、生き残るすべはあったように思います。

詳しい方、ぜひ教えてください。

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mak********さん

2006/12/2015:32:52

徳川家康は「天下の座」を徳川家が代々世襲するため障害はすべて除去しようと考えていたわけですから、豊臣家の子孫を最初から根絶やしすることを大前提としていたでしょう。福島正則、加藤清正を始めとする豊臣恩顧の大名たちも結局は大多数が取り潰され、かろうじて生き残ったのが加賀100万石の前田家だった事実からも明らかです。

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2006/12/2613:32:30

不可能であったであろう話ですが、無条件降伏することです。されど、そのようにできるのであればとっくに徳川大名として伊豆あたりで崇拝される家として残ってるでしょ。

kop********さん

2006/12/2101:59:05

冬の陣と夏の陣は、ワンセットと考えるのが妥当でしょう。慶長19年の開戦まで家康は、豊臣家をある程度尊重しまた、自然の理として政権安定の為に徳川家に臣従するよう政治工作を行ってきた。しかし、徳川政権安定の為に諸大名に実施しようとする施作をするに、大坂の陣を2回やれるほどの財力と難攻不落の城を持ち臣従しない豊臣家を討たざるをえなくなった。大坂の陣の勃発自体が既に、豊臣家を潰す選択である。冬の陣の講和は単に戦略のひとつである。また、大坂の豊臣方にしても、諸大名に激を飛ばしはしたが加勢するものがひとりもおらず、政治的にも家康にたいして秀頼を擁護するものがいない状況であったから、滅亡か天運により生き残るかの覚悟はあったであろう。大坂方にとっても冬の陣の講和は戦略のひとつ。講和をし時間の経過によって状況が変わるのを待とうとした。恐らく籠城を続けていたとして政戦共に孤立した状況であり、また弾薬の消耗もあり経戦よりも家康に対する自然現象を待とうとしたのだ。しかし、唯一の方法は探るとすれば、秀頼自身が大坂にそれぞれの想いを賭け参陣した浪人達を捨て、後世の誹謗に耐え家を残す事のみを考え、供回りわずかで家康の陣へ赴くことであろう。自害をさせられることはないだろう。

Scullさん

2006/12/2019:11:16

冬の陣で和睦した時点で終わりですね。あそこから豊臣が生き残るには、淀殿を人質に江戸へ差し出すぐらいはしないと無理でしょう。大坂からの退去、浪人の放逐では「却ってやりやすくする」だけです。

pak********さん

編集あり2006/12/2018:53:42

家康は、そんな温情は持たなかったでしょう。
外様にすらしないと思います。
徳川の権力を安泰させるには、反逆の火種は徹底的に根絶やしにしないと、と。
太平天国を実現するには、カリスマ性・求心力のある豊臣の名すら一挙に消し去らないと、と。
戦乱の中で生まれ、したたかに生き抜いてきたウマイ人だから。
「本能寺の変」もリアルタイムで体験した人だから。

豊臣にしろ平家にしろ「ラストサムライ」にしろ、滅んだ側にセンチメンタルを付けて名残惜しむものです、後世は。
滅びの美学です。

apo********さん

2006/12/2015:20:57

1)例えば、摂津あたりに逃れて数十万石の大名となり、徳川家に臣従したとしても、いずれは滅ぼされたでしょう。
2)『織田有楽斎』のような立場になれば、豊臣氏は残ったでしょう。
織田信長の弟。織田軍の一員として各地で戦い甲州征伐などに従軍した。本能寺の変が起こった際に京都におり、甥の信忠が自害したのを聞いて「自分も自害する」と言ったものの兵に自害の準備をさせている間に安土城に逃げて助かる。 
その後、豊臣秀吉に仕えて摂津島下郡味舌に2千石を与えられた。そして出家し有楽斎と号する。千利休から茶の湯を習い『利休七哲』に数えられ、彼が亡くなった後は秀吉の茶の湯をつかさどる。
関ヶ原の戦いでは東軍について石田三成軍の猛将を討ち取る活躍をし大和国内に3万石を与えられた。大坂冬の陣が起こると大坂城に入り姪の淀殿を補佐したが、内実は徳川家に通じ豊臣家の情報を関東に流している。
 徳川家康が和議を希望するとそのために動き淀殿や豊臣秀頼の説得をした。夏の陣が始まる直前に大坂城を出て京都の東山で余生を過ごす。

上は、はっきり言って『卑怯』な生き方です。
こうすれば、存続はできたでしょうか。

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