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お久し振りです。 古代史について質問です。 本日、わが社の下請けさんの工場...

kaw********さん

2013/3/918:18:53

お久し振りです。

古代史について質問です。
本日、わが社の下請けさんの工場にいったのですが、小さな石積の円墳が幾つも固まる古墳群が近くに有りました。
軽く説明を受けたところ、石積

の古墳は日本では珍しく、愛知県東部にあたる東三河と、海外では朝鮮半島でみられるそうです。

古代史には全く知識がないのですが、愛知県東部は朝鮮半島との交流が盛んな地域であったのでしょうか?

この質問はリクエスト質問ですが、この質問を見られた方でも気楽に回答をお願いいたします。
よろしくお願いいたします。

補足皆さん回答ありがとうございます。

一概に渡来系と関係が深いというわけではないのですね。

asassasssss99999999さん
私の見た古墳群は豊橋ではありません。
そして東三河にある石積の古墳に関する質問で捏造とはどういうことでしょうか?
古墳時代以降に造られたということですか?
東三河の石積古墳を捏造とする史料か何かがあるのでしょうか?

この質問は、ann********さんに回答をリクエストしました。

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ベストアンサーに選ばれた回答

shi********さん

編集あり2013/3/1019:18:30

わかりやすいかどうか疑問ですが、とりあえず三河地域の詳細を語る前に伊勢湾ですよね。伊勢・尾張・三河に囲まれた内海であることはご承知のことかと思います。
それら伊勢湾を囲んだ三国はそれこそ古墳時代において、東国と西国を文化的に別ける分水嶺であり、特異な文化をも育む地域だったとはいえるんじゃないでしょうか?
一つの例をあげれば前方後円墳という形式の墓制ですが、この形式は鍵穴みたいな形であり、その様な形で画一的に全国に分散し、大和朝廷への服属を示すメルマークとして、日本においては特に有名な墓制なのですが、こと伊勢湾を囲む伊勢国。具体的には三重県松坂市にある、宝塚1号墳という古墳においては、円と方の間にあるクビレの片方ないんです。では無くなったクビレの部分はどのようになっているのか?説明しにくいので画像をはっておきます。
そして、このクビレにあるコブのような方部に有名な船型埴輪が出土しているんですね。このような特徴から、この古墳の被葬者は、やはり伊勢湾を縦横無尽に航海し文化や人の交流を進め助けてきたんでしょうね。
その様な事は、やはり三河地域にも同じことが言え、北は長野県南部(伊那あたり)東は遠江(浜松)西は伊勢あたりが、当時の東海として認識され、共通した拡散性のある文化を育んでいたということですね。

つまり、伊勢湾の海上でつながる三国、中でも三河地域は現在の東海道を抜けて琵琶湖を北上。福井県の敦賀や、そのまま新幹線のように大阪へ向かう、非常に利便性の高い道を有し、また矢作川など長野県南部とも結ばれる道にもあたる、文化伝搬性の強い地理的環境があるんですね。

その様な中で、ご指摘の群集墓ですが、たとえば長野県南部、伊那や飯田の近辺は非常に古墳が多い地域であり、さらに特徴的なのは、被葬者と馬の飼育に大きな関連性があるようで、古墳をぐるりと囲むように殉殺した馬墓を陪塚のように配しているんです。このように、古墳時代の東海地域は、様々な文化を吸収し、東海風にアレンジし活用しているんですね。そのような中で、朝鮮の特徴も流入したのかもしれませんが、その墓制の中での石積について、朝鮮人の手により伝えられた特徴であると限定的に考える事は、ある意味自然な流れではないですよね。
というのも、古墳時代ではありませんが、壬申の乱などにおいても、後の天武天皇の一番の勝因とも目される、東海勢力を取り込んだ。という部分で、ここに朝鮮人の云々などは見えてきませんから。また弥生土器の出土状況でも、東海地域の土器はかなり広範囲に拡散していますからね。卑弥呼云々で話題の奈良県の纏向遺跡でも大量に出土していますが、これは纏向遺跡の王者の権力を見るのではなく、東海地域の持つ強い拡散性の方が注目されています。なにせ、東海の土器は北陸にも関東にも見られますから。

最後、簡潔に…
三河地方をふくむ、古代の東海地域は、文化交流が盛んになされる地理環境の上に立ち、様々な文化を発信し、かつ吸収していたという特徴があり、その様な中で中央(奈良など)に見られない、独特な文化を育む地域であった。ゆえに、同地域の文化の特性を短絡的に朝鮮由来と考えることは、現在のところあまり見られない。ということだと思います。

追記します…
丁重なる捕捉をいただき感謝いたしております。文化伝搬って残された遺物からの想像がたよりですからね、非常に難しいのですが、朝鮮からのいわゆる渡来人が、古墳時代に当該地域を左右するほどの人数が、東海地方に大挙押し寄せ、墓制にも強い影響を与えたとは考えにくいのかな?という仮説のレベルです。
今回の回答の切り口は、僕もさもしい知識の中で、かなり迷いました。特徴ある墓制を中心として説明するか?三遠式銅鐸について言及するのか?ただ墓制の方がわかりいいかな?と思い今回になったのですが、いずれの説明においても、三河・遠江付近は、弥生期では特徴的な文化を育んでいたんですね。どちらの説明をするにせよ、僕が言いたかったことは正にそれなんです。

わかりやすいかどうか疑問ですが、とりあえず三河地域の詳細を語る前に伊勢湾ですよね。伊勢・尾張・三河に囲まれた内海で...

質問した人からのコメント

2013/3/15 20:46:09

皆さん回答ありがとうございました。

朝鮮に縁があると考えるだけではなく、複合的に考えなければなりませんね。

大変参考になりました。

ベストアンサー以外の回答

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asa********さん

編集あり2013/3/1021:49:19

豊橋は捏造が多いからな。。。。。。。。。。。。。

安曇連は日本人で、豊橋の飽海とは関係ない。新撰姓氏録を見よ。

豊橋の羽田は、秦氏である、全くのデタラメ。羽田という地名自体が江戸時代以降。

豊橋の牟呂は、朝鮮である、全くのデタラメ。牟呂の地名は、建武以降が初見。

飽海評大辟部五十戸人委文部委文〈〉‖俵 安曇氏などいない。委文部という部民がいるだけ。

三川穂評穂里穂部佐 穂部佐という部民がいるだけ。

大室古墳群では、最も古い5世紀中ごろの合掌形石室から、今回調査された最も新しいタイプの合掌形石室を伴う241号墳(築造は6世紀初め)まで、いずれも埴輪を伴うことが明らかになりつつある。渡来系の人々が造ったはずの合掌形石室に、なぜか、日本列島に特有の埴輪が樹立されているのだ。

考古学では、墓制にかかわる要素に、その集団特有の系譜が表れると考えるのが一般的だ。

「埴輪からみる限り、合掌形石室の被葬者イコール渡来系という単純な議論はもう通用しないのではないか」。241号墳を発掘した長野市教育委員会の風間栄一主査はそう指摘する。

実際、241号墳からは、飾り馬具や特殊な矢じりなどが出土したが、これらは日本列島の他の古墳でも見られるもの。大室古墳群全体を眺めても、朝鮮半島系と確実に言える遺物はほとんど出土していない。

ann********さん

リクエストマッチ

編集あり2013/3/918:55:53

おひさしぶりです。

私は古代史屋なんですが、
奈良末平安初めの政治史が専門でして、考古学にはとんと疎いのです。

また、東三河と朝鮮半島が繋がる話は聞いたことが有りません。
無責任な回答をして迷惑をかけるのは不本意ですから、
ここは「私には解らないです」とお答えするしか無さそうです。

ただし、よく聞く話しとして、
石室は石積みにより作りますが、墳丘が崩壊した後に、
石室が露出し、小さな石積墳丘に見えるケースがあるようです。
また、いわゆる「積石塚」と呼ばれるものならば、
割に各地に有ると聞いています。これがご質問の古墳なのかは、
私の考古学知識ではなかなか推し量ることが出来ません。
半端回答で申し訳ないです。

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