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日ソ不可侵条約

dlb********さん

2007/3/623:15:47

日ソ不可侵条約

ソヴィエトは日ソ不可侵条約を一方的に破りましたが、勝てば官軍ですか?

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apo********さん

編集あり2007/3/709:20:27

『勝てば官軍』は正しい。
しかも、日本国内の反日サヨクは今に至るまで、ソ連を賞賛し、満州引き上げの悲惨さ、残虐さを隠蔽し続けている。

8月8日に、ソ連は日本へ宣戦布告。
その数十分後に軍隊を動かし、8月9日未明には満州に侵攻したのです。
ソ連軍は、たくさんの戦車と機関車に乗って満州にやって来ました。
その機関車の先頭には、裸にされた日本人女性が縛り付けられていた。

ドイツ戦線でのソ連軍将兵の素質の悪さは定評があった。
ドイツでは老女から4歳の子供に至るまで、エルベ川の東方で暴行されずに残った者はほとんどいないと言われている。しかもその残虐行為は上からの指示によるとも伝えられている。
ソ連軍がベルリンに突入して制圧した際、スターリンは兵士に対し「ベルリンはおまえたちのものだ」といい、3日間の祭りを許可した。
ベルリンの女性のほとんどがソ連兵によりレイプされ、連合軍に届けられたものでも10万件を越えた。また暴行による自殺者は6000人を数えた。
(「カラーで見る第二次大戦・勝利と絶望」1999年12月10日、NHK教育放送)
スターリンの娘スベトラーナもこれを裏付ける証言をしている。それによると、スターリンはヨーロッパを荒廃させることを奨励し、それに喜びを感じていた。
赤軍の残虐さを許すことで敵国の嫌悪を買い、親しくなることで堕落しないようにしむけた、といった複雑性を含んでいたという。

ソ連軍は満州で日本の女を見つけると、白昼でもレイプしていて、現場を宝田明も目撃している。日本女性は男に変装し髪を切り逃走をしようとしたが、列車でも止まるたびにソ連兵が日本女性を捜しに現れ、男女見分けがつかない場合、胸をつかみ、女とわかるとひきずり降ろし、数名の兵士が輪姦した。
樺太では夜間になるとソ連兵が家に押し込み、銃でおどしながら、夫、兄弟の目の前で強姦が多発した。

外地からの引揚者は博多港から上陸する例が多く、九州大学の医師が中心となった。
医師団が希望する女性を診察し、妊娠していたら麻酔薬なしで中絶手術を行っていた。
中絶の為の仮設の病院が大宰府にあり、国家レベルで実行していた。

[敗戦による北鮮引き揚げ]
日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。
もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。
「韓国・朝鮮と日本人」若槻泰雄(原書房)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/rekisi1.htm#hikiage

満州ではソ連軍だけでなく、満州人(シナ人)も日本人に襲いかかって来た。半藤一利著「ソ連が満州に侵攻した夏」(文芸春秋)にある。
日本敗戦後、中国国民党軍は、強制的に満州の日本人女性を中国共産党軍との戦いにおける従軍慰安婦にした。
http://www.nc4.gr.jp/y-watch/jp.comfortwomen3.html

ソ連軍は満州で、満鉄、政府、個人の財産、供出の金塊・ダイヤ、あげくに発電所・製鉄所等、今日の邦貨にすれば何十兆円ともいわれる日本の合法的資産を賠償として持ち去った。
http://www02.so-net.ne.jp/~n_kawa/main/book01.htm

ケー二ヒスベルク攻防戦での赤軍のプロパガンダより、
「殺せ!殺せ!殺せ!撃ち殺せ、銃弾が尽きたら棍棒でナイフで殺せ!ドイツ人を生かせば、諸君の母親と息子を殺し、 妻や恋人を強姦する!殺せ!殺せ!」

満州でのソ連軍の民間人に対する無慈悲な行為は、日本政府中枢に知ることになり、政府はマッカーサーにソ連軍の戦闘を止めるように要請し、マッカーサー元帥が在モスクワの米軍事使節団長・ディーン少将を通じて、ソ連軍統帥部に攻撃停止を調整したが、
アントノフ参謀総長は「ソ連軍がその作戦地域内において 攻撃作戦を中止するか否かは、その地域の最高司令官の判断によるものである」
と取り合わなかった。
日本のポツダム宣言受託が確認された15日に、極東ソ連軍総司令官・ワシレフスキー元帥は第二極東方面軍および太平洋艦隊に対して、樺太西岸・真岡への上陸及び千島列島北部占領の準備及び実施を命令した。

サヨクというのはご都合主義。
普段は殺人犯でも死刑反対と言って、悪人の人権ばかり擁護してるくせに、社会主義国の犯罪となれば、ドイツが悪だったので、強姦されて当然だとか日本軍国主義のせいだと責任転嫁する。

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del********さん

編集あり2007/3/713:09:07

ソ連は日本のポツダム宣言受諾後も、侵攻を行いました。
当然不可侵条約もまだ有効だった期間です。(すでに破られていましたが。)


一例として、占守島(しゅむしゅとう)攻防戦が挙げられます。
昭和20年8月17日深夜、ソ連軍は千島列島方面に侵攻を開始しました。
もちろん国際法に違反する行為です。

当時はすでに武装解除のための作業を開始している状態であり、戦闘行為はポツダム宣言に違反する行為です。
占守島にいた師団長堤中将はかなり悩んだことでしょう。
しかし「百年兵を養うは、非戦闘員を護らんがため」といい(出典失念)、迎え撃つことを決意します。

師団司令部では、女性が陵辱される危険性を考慮し、千島列島方面に残っていた若い女性たち約400名を輸送船に乗せ、日本本土に向けて出港させました。



「上陸軍全てを海に叩き落とせ」の号令により行われた迎撃戦は、凄惨を極めたといいます。
最終的に上級司令部である第5方面軍より停戦命令が発令され、ソ連がこれを受諾したのち戦闘は終結しました。

この闘いにおけるソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回りました。


北海道侵攻を考えていたスターリンは、あまりの被害にこれを断念したそうです。



その後、武装解除され捕虜となった将兵はシベリアに抑留されます。
彼らが日本に帰還するのは昭和31年を待たねばなりませんでした。

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