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博愛と母性・・・ ある回答者が、私が「母性」だとみなすことについて、 それ...

bai********さん

2013/7/1317:12:45

博愛と母性・・・

ある回答者が、私が「母性」だとみなすことについて、
それは「博愛」だと言いました。それに対して私は

博愛が究極的なところまで行けばそれは母性となる
というような見解を示しました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311020102...

この博愛と母性ーーあまり愛について理屈を述べるのも
どうかと思いつつも問います。

福音書の中でイエスは「天の父が完全であられるように
あなたがたも完全なものとなりなさい」と述べています。
(これはイエスが我々に放った祝福だと捉えるのですが)
それは愛において完全な人格を有するように努めなさい
という意味において自身は捉えるのですが、ここで仏教
的にも仏を「慈悲」として表現するわけですが、思うに、
全きこの慈悲とは、それは「母性」のようなものではない
かと思うのです。その回答者の方はマザーテレサのこと
を上げ、それは「博愛」だと言いましたが、私が思うに、
もしマザーテレサの愛が神如き愛に似たものであると
するなら、それは「母性」と表現するにより近いと自身
としては思うのであるが、あなたはどのように思われ
ますか?

補足私の中に思い違い、考え違いがあるかもしれない。
私は人を愛しむ気持ち、それは感情だと思う。
可愛そうに思う憐憫の情、また自分が苦しむ誰か
の身代わりになってあげたいと思う、自然な心の
発露、それは多分に母性的なものであり、それこ
そが、人を生かす愛、慈悲にも通ずる愛ではない
かという思いがあります。また仮に理性的博愛か
ら出発しようが最終的には、そこまで言ってこそ
より完全なる愛なのだろうという思いがあります。

この質問は、sab********さんに回答をリクエストしました。

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sab********さん

リクエストマッチ

編集あり2013/7/1509:23:15

このご質問は興味がありますが今は時間切れなので、あす回答させていただきます。
一般論として、愛とは何かと言う問題があります。愛とは何でしょうか?対象の幸福をねがって、心を用いることですね。つまり、対象のためになす配慮とその実行です。それでは、その愛が母性的なものであるとしても博愛的なものであるとしても、結果は変わらないか、それとも結果は違ってくるのか?母性の愛とはどのようなものでしょう。これは昔は本能的なものと言われていました。しかし、本能の中身を解析しなければ、そこで話は終わってしまいます。ここで近年女性の母性愛が非常な危機にひんしていることを考えてみてください。子捨て、子殺し、ネグレクト、いじめ、まともじゃないことのオンパレードです。これはつまり、女性の母性愛は、理性よりは、感情によって支配されていることを意味しています。理性でコントロールされているならば、ここまでは乱れないでしょう。その証拠は、子供に対しては配慮を書きながら、自分の面倒は見ていると言う事です。自分に対しては理性を用いて、飢え死になどはしないようにできています。しかし子供に対しては、感情の赴くまま理性を捨てています。炎天下に子供を駐車場に残してパチンコする母親。パチンコでは勝っているのでしょうか?パチンコでは理性を使い、子供には理性を捨てています。
ところで博愛とはなにを指しますか?それは友人でもない人を友人のように愛することです。つまり、人間はみな友人であるとか、兄弟であるとみなすような心です。これは、本能的じゃない、つまり、感情のままにではなく、理性によってなされる配慮とその実行です。この際、博愛は、自分の心の成長が死活的に必要で、嫌いな人をまずなくさないとあり得ません。人間は体質と性質によって、他人に対する好き嫌いと言うものが普通にあります。私もこのカテでは決して友達になれない人がいるだろうと思います。それをまずなくさなければなりません。その次に、なるべく平等にしなければなりません。それがなければ博愛ではなく偏愛であり、価値はぐっと下がります。博愛は、愛すると言うことに、大きな理性の働きがまず必須の条件となります。
つまり、母性愛とは、感情的な支配のもとにある愛であり、博愛は理性の支配下にある愛です。
私はマザーテレサの愛が本物であればある程、感情的な愛に代わっていっただろうと思います。そして、本能のように人を愛することに対して、彼女は恥じることはなかっただろうと思います。ただ、博愛平等の心は常に持っていながらでしょうが。理性から、感情に愛が変化することに恥はありません。ただ、そのことに対する配慮としての平等を忘れなければ。

補足に対して、母性的な愛と言うのは、本能的な愛であり、要するに、なぜか我々が持っている愛の感情です。そしてこの愛の感情は、偏愛が基本です。自分を犠牲にしても、自分の子供だけは助けたい、そのような母性愛がなければ子は育ちません。これは、危険がいっぱいで子を育てることが非常に困難だった、人類の長い長い歴史の、古い古い時代からの、人間のそれこそ本能的な、子供を育てるための必須の愛です。ところが、最近はこの母性愛が欠如してきています。その原因は何にあるのでしょう。やはり、歴史的にみれば、人間の関心が非常に分散されて、子育てに集中されなくなった、要は以前にも言いましたが、エントロピーの拡大じゃないでしょうか?今は子を産むことも子を育てることも忘れられていく時代じゃないでしょうか?母性による偏愛で子が育てられたのが、その偏愛が失われて、つまり、本能的な愛が喪失されて、それに代わる何か、制度のようなものが持ち込まれる時代になったのでしょうか。時代が博愛を要求しているのかも知れませんが、人類がはるかに長い期間持っていたのは昨日や今日から持ち込まれた博愛の精神ではなく、母性の偏愛による、献身だったのです。ですから、博愛は新しく母性は古いと言えますが、それだけに、人類の基本をなしてきたものであるに違いないのです。

質問した人からのコメント

2013/7/20 06:41:58

まだまだ大いに考察できそうなテーマだと思いました。
とくに、後半部で語られたことに興味を持ちました。
なにか観念的なものが先行し過ぎている状況は
それがゆえの弊害もまた生み出すはずではないか
という風に思います。

ありがとうございました!

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