江戸開城について教えて下さる方! お願いします。 そして、江戸開城で篤姫がどんな活躍をしたのかも教えて頂けると嬉しいです。

江戸開城について教えて下さる方! お願いします。 そして、江戸開城で篤姫がどんな活躍をしたのかも教えて頂けると嬉しいです。

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通説・・・3月6日徳川追討軍の大総督有栖川宮も出席した駿府での軍議で3月15日の江戸城総攻撃が決定した。 3月9日勝の手紙を持って駿府に到着した山岡鉄舟と西郷との会見で勝・西郷の会談が設定された。 3月14日の勝・西郷会談で江戸城総攻撃が一時中止となった。 現在・・・英国外交官アーネスト・サトウの記録によれば3月12日に江戸湾の砲台が官軍に引き渡された。 勝・西郷の会談は江戸城総攻撃を回避するのが議題ではなく降伏条件の再確認であったとする。 残念ながら戦争回避に努めたのは和宮ですね。 和宮の母方の従兄が東海道方面総督の橋本少将であった事。 当時の德川家を代表する立場であった田安慶頼が和宮に依頼して有栖川宮と面会できるように取り次いでほしいと依頼され、和宮が依頼書を作成。(これが後世嘆願書と呼ばれるもので嘆願ではなく面会の依頼書であった) 橋本少将がこの依頼書を受け取り、有栖川宮に見せると宮は手紙では返事が出来ないので使いを寄こすように指示。 この使者が駿府で少将と面会したのは3月13日でした。 この時に有栖川宮が書き残しておいた書状を見せられ『徳川家臣の大久保一翁・勝安房・山岡鉄太郎、三名の嘆願を聞き入れ、寛大な処置をする』 つまり幕府側と有栖川宮とで秘密交渉がおこなわれていたという事で、和宮の動きとは関係なくすでに決まってはいたが、和宮の派遣した使者(女性)は官軍がひしめく道中を苦労して通過しているのでこの使者も必死だったのですね。 天璋院は幕府側として立場を決めておりツテもないので、田安慶頼は和宮に依頼した。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ご説明ありがとうございました。 江戸開城についてよく分かりました!

お礼日時:2013/8/4 21:16

その他の回答(3件)

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主に大奥向の動きを主軸に順を追います。 まず、鳥羽伏見で敗れた慶喜は1868年正月12日に江戸の浜御庭に到着。その日の内に天璋院と面会し、宗家後継についての相談をし、和宮へのとりなしを要請します。和宮が面会を許したのが15日で、慶喜から経緯の説明を受けて、助命嘆願を承諾します。 同21日に、土御門藤子が和宮の直書と慶喜の嘆願書を橋本実麗・実梁に渡すため江戸城を発ちます。参内は許されなかったものの、慶喜が恭順するなら寛大な対応をするとの「口演書」を藤子が持ち帰ります。 2月初旬、慶喜が上野寛永寺に謹慎することが決まり、徳川家の家政は田安慶頼と松平確堂が、天璋院と和宮に相談しながら担うこととなります。その間、勝海舟は薩摩藩老女・花川に西郷隆盛と海江田信義への書状、越前藩家老・本多修理に松平春嶽宛の書状、さらに3月4日には駿府へ向かう山岡鉄舟に西郷宛書状をそれぞれ預けます。 山岡が駿府へ向かうのと前後し、天璋院が西郷に宛てた手紙が老女・幾島の手で送られます。NHK『歴史ヒストリア』では、天璋院の書状を受け取った西郷が「御台所をここまで追い込んでしまった」と涙した、と紹介されていました。その後3月9日に西郷より、新政府側の条件を飲めば徳川家存続について寛大な処置を取る旨、が山岡に伝えられます。さらに天璋院には嘆願を受け入れる旨を知らせています。 これを受けた天璋院は、家中に恭順の意向を徹底させるよう大奥向より御触を発令しています。その後、勝・西郷の会談を経て開城に至りました。 これらの点から、畑尚子氏は、西郷が天璋院の書状を受け取った時点で江戸攻撃が中止したこと、及び大奥向が開城に向けて大きな役割を果たしたことを指摘しています。 参考: ・畑尚子「幕末の大奥 天璋院と薩摩藩」 ・「徳川政権下の大奥と奥女中」

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篤姫和宮、二人の嘆願は徳川家の存続を切に望むものでした。ぶっちゃけ慶喜の命はどうでもいいと。 江戸城無血開城には大して影響は与えていないでしょう。薩摩にとって篤姫は役立たずでしたからね。 追記 またまたこれが真実だみたいなことを言う人がいますが、パークスやら篤姫やら和宮やら。全くとんでもない話です。 3月12日 「東海道官軍の前隊品川砲台を収む」東海道軍の前隊が砲台を抑えただけです。 「輪王寺門主入道公現親王が府中に入った東山道軍の進撃を止めんことを請う。聴さず」もちろんこの時点でも西郷は戦争やる気満々でした。 3月13日「静寛院宮、侍女土御門藤子を東海道先鋒総督橋本貫梁に、侍女玉島を東山道先鋒総督岩倉具定に遣わし手書きを贈りて慶喜臣隷の帰順する者を恩宥し、進軍を止めん事を請う。」これ以上のことは何もありません。 慶喜の恭順を伝えただけなら甲府で近藤勇がとっくに伝えていますしその他にも使者はいました。和宮の使者もその他大勢の一人に過ぎず何の役にも立っていません。そもそも慶喜の恭順や無血開城するにあたっての条件を官軍方が提示したのは山岡鉄舟だけです。そして山岡の尽力によって15日の進撃を止めたことは多くの一次史料が記していることです。また逆に「和宮の嘆願を聞き入れ無血開城を決めた」などという一次史料もありません。「ごめんなさい、ハイ許します」などむしろオカルトです。和宮が皇族だから聞き入れたという単純な発想でしょうか。それならば慶喜の母親も皇族です。 西郷、勝の会談は山岡が和平の道を開いて行われたもので、もちろん西郷、勝の会談で交渉決裂の可能性もあり得ました。その為に西郷、勝の会談が行われるまで江戸城では大砲を備え、胸壁を築き城内で調練もしていたのです。 更に追記 江戸無血開城はパークスの功績だといという説は古くからあり、防長回天史ではこれに対して当時の詳細を記し真っ向否定、勝と西郷の談判によるものだと注釈を入れています。もちろん篤姫や和宮の嘆願は論外で説も何もありませんので何も書かれていません。 ここで回答してる人に言っても知らないでしょうが、防長回天史は長州の第一級史料で維新の基礎史料でもあります。 三月二十日西郷入京し大総督府の條款書及び勝安房の奉答書を朝廷に提出して裁を仰ぎ、即日朝議を太政官代に聞き三職の意見を徴しています。つまりこの時点ではじめて江戸無血開城が決定したのです。 篤姫や和宮の嘆願が多少なりでも影響を与えたと思われるほのめかしの記述すらもありません。 NHK『歴史ヒストリア』で天璋院の書状を受け取った西郷が「御台所をここまで追い込んでしまった」と涙したという話は事実不明の上に江戸無血開城とも関わりのない話でひどいこじつけです。西郷は山岡と面会した後に動いたのが歴史の事実であり、新説を唱えるなら一次史料を挙げるべきです。 歴史は史料の上にあり、想像ではありません。

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江戸総攻撃の予定日3月15日の前々日と前日の2日間の勝海舟と東征軍参謀の西郷隆盛との会談があって無血開城が決定しました。 天璋院篤姫は和宮と共に、朝廷に対して徳川家存続と将軍慶喜の助命嘆願書を書いています。 開城にあたって篤姫は『徳川家の大奥がどんなに見事なものか、長州や薩摩の田舎者に思い知らせてやりましょう』と、豪華な部屋をそのままにして退散した。自ら希望して徳川家の人間として生き、維新後も島津家の援助も受けず徳川家からの月々25円 で暮らしたが、徳川家を継いだ家達の面倒から300人ちかい女中の身の振り方まで心配しています。死後手文庫の中にはわずか3円しかなかったということです。