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魏志倭人伝の『邪馬台国』に関する記述を、正しいと推定する根拠を教えてください...

ang********さん

2013/8/417:43:48

魏志倭人伝の『邪馬台国』に関する記述を、正しいと推定する根拠を教えてください。例えば、
「倭人伝」以外の他国の記述が、魏志は正しいと証明されているとか。

魏志倭人伝の記述が、邪馬台国に対して正しいのなら、どうして『記紀』に関連する文章が少ないのかという疑問があるからです。

邪馬台国が何かしら日本につながりがあるのなら、当然日本の記紀にも、多数邪馬台国に関連する記述があるはずです、
しかし、記紀に邪馬台国に関する文は極めて少ない。神宮皇后くらいですかね。


この『記紀』に邪馬台国に関する記載が少ないのは、考えられる理由としては

1.魏志倭人伝の記述が創作であり、事実を書いていないという推測が成立します。

また、他の史家の言うように、

2.ヤマト政権と関係ないから、記紀に記載がない。
⇒邪馬台国を滅ぼしたにせよ、乗っ取ったにせよ、『書く』という選択肢はありえたはず。『書かない』という理由はないと感じます。


3.邪馬台国が東遷してヤマトになった。経歴・出自を書いてもいい。

このほか、いろんな説明・解釈が成立すると考えるが、


『1』の魏志倭人での記述は『ウソ』は成立しないのか。

『ウソ』が成立するためにの一考察しては、魏志の「倭人伝以外」の記述の信頼度、信用性はどの程度なのかを教えてください。

補足九州には、阿蘇山とか雲仙岳とか高い山がある。

この高い山から見て…の方角に邪馬台国があるとか・・・


船ならば、…岬や島から見て…の方角に邪馬台国があるとか・・・


福岡県なら、釈迦岳 1230mから見て


なんつう具体的な記述が欲しいね。

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oia********さん

編集あり2013/8/819:14:46

「魏志」の記述は、現在かなり信頼が置けるものとして扱われています。

いわゆる「魏志倭人伝」とは、正確には「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝」の中の「倭」について書かれた部分の事です。
つまり同じ伝の中に烏丸・鮮卑を始め「東夷」とされた高句麗や三韓などについても記述されています。
これらの記述は同時代の朝鮮半島や中国東北部の歴史を研究する際の基礎史料とされています。

特に烏丸や鮮卑に関しては、袁紹と結んで曹操に討たれた烏丸の蹋頓や、曹操の子曹彰に討たれて魏に従うようになった鮮卑族の軻比能など、三国志好きなら聞いた事のある人物名も記され、正に「三国志」の一部としてそこに書かれた事は史実であるとされています。
また、高句麗についても、公孫氏に服属したり魏の毌丘倹に討たれたりして、魏と直接的に関係しており、これについても記載された事物は、ほぼ史実としてとして扱われています。

もっとも、当然ですが全て完全な信頼が置ける訳ではありません。何しろ1700年以上も前に書かれたものですから、内容の信頼性を完全に確かめることは不可能です。そもそも「三国志」の記述自体が完全に真実であるとは言えないでしょう。何らかの脚色・誇張・勘違い或いは虚偽が含まれている可能性も完全に否定はできません。
ただしこれは、三国志に限らずあらゆる史書に共通した問題です。古い時代に書かれた史書はその全てを完全に信頼する事は出来ません。

史書の記述が完全に信用は出来ないからこそ、考古学的な調査とのすり合わせが重要と言えます。
いくら史書に書かれていても、遺跡等の考古学的な調査と矛盾すれば、一般的に史書の記述は疑わしいとされます。
三国志の魏書烏丸鮮卑東夷伝に関して言うなら、発掘調査等によりそこに記述されているような国が存在した事がほぼ明らかになっており矛盾は特にありません。だからこそ、その記述は一般に信憑性が高いとされている訳です。

以上のように、「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝」における倭以外の記述に関しては、
・そのいくつかは三国志の本筋とも直接関わっており互いに矛盾はない。
・三国志のみを他の史書と比べて殊更疑問視する理由もない。
・考古学的な調査との間にも矛盾はない。
という点で概ね信憑性がある信頼できるものとされています。
もちろん完璧とは言えませんが。


倭の記述に関して言うならば、その内容は烏丸や鮮卑・高句麗等と比べれば明らかに間接的で、遠隔地の事でもある為、信頼性は下がると思われます。特に邪馬台国の位置に関しては、その行程を全て信じるなら太平洋上にあったことになってしまい、とてもそのまま信頼する事は出来ません。
しかし、その存在そのものを完全に虚偽であるとするのも不自然です。なぜなら、わざわざそのような嘘を書く必然性が何もないからです。はっきり言って三国志全体の中で「倭」の記述などは枝葉の事に過ぎず、別に無理に書く必要などない事柄です。
そのような事実が何もなかったなら書かなければ良いだけで、無理に創作する必要はありません。にもかかわらず記述がある以上、何らかの事実はあったのだろうと推測されます。
一般的に邪馬台国の記述が概ね信用されているのは以上のような理由によります。


ちなみに、「記紀」に邪馬台国に関する記載が少ないと言いますが、「記紀」に記されていないのは邪馬台国の記述のみではありません。邪馬台国よりも百数十年後に中国に使いを送った「倭の五王」に関する記述も書かれてはいませんし、「随書」に記載のある小野妹子より前の遣隋使に関しても記述がありません。

これらの記されなかった事績に共通するのは、いずれも中国に対してへりくだった態度で接しているという事です。邪馬台国も倭の五王も中国の王朝に対して「臣下」として接していますし、最初の遣隋使も「隋書」によると相当馬鹿にされている様子が伺えます。
これらを考えれば、日本にとって屈辱的と見える外交の歴史は「記紀」に書かれていないとみる事が出来ます。
「記紀」が記された当時、日本は中国とは独立した中国と対等な国であるという立場を国是としていました。この為、これに反する過去の記述は全て排除された可能性がある訳です。

いずれにしても、古い史書の記述を完全に信用する事が出来ないというのは日本についても言える事です。日本の史書に記述がないからと言って、中国の史書の記述が嘘であるとは言えません。

一つ言えるのは、考古学的な発掘調査等を見れば、邪馬台国の時代に日本列島に相当な規模の国が存在し、中国と交流していたのは事実だいう事です。にもかかわらず、中国との関わりをほとんど記載しない「記紀」はこの点に関してはやや信憑性が低いと言わざるをえません。どちらかと言えばこの点に関しては中国の史書の方が信頼が置けるのではないでしょうか。

補足
それが提示できるなら、邪馬台国の場所は既に特定されているはずですよ。

質問した人からのコメント

2013/8/9 14:10:38

魏志の中でも、1)信頼のおける記述の国々、2)記述が信頼できない国々を峻別すべき。
岡田英弘「日本史の誕生」より
邪馬台国は、大月氏国と同等の大国でなければやらず、魏の都・洛陽からの距離も大月氏国は洛陽からは1万七千里であったため、邪馬台国も帯方郡から一万二千里と遠隔地に設定された。また、かって、魏は大月氏国に「親魏大月氏王」の称号を与えたが、邪馬台国に対しても同等の「親魏倭王」の称号を与えた。

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mam********さん

2013/8/816:49:33

邪馬台国、卑弥呼などは非常に卑しい名称です
広東語地域の人のこういう綴りを見せると露骨に嫌な顔をします
詰まり魏志ではでは日本を卑しい国として扱っていたのです
だから日本の国書にこう言うも記述が無いのは当然です
日本に記述がないからと言って魏志が虚偽であるとするのは行き過ぎです
他に記述が無いから仕方がありません
またまつろの国までの記述は正確です
だからまつろの国までは来ていると思います

邪馬台国に関する記述は議の属国を大きく見せるために誇張されているように思います
まつろまでの記述に比べて邪馬台国までの行程は曖昧です
魏使は邪馬台国には行っていないと思います
水行10日陸行1月、これを全行程とすれば当時の「人船は10里押しを一日行程と心得」で計算します
およそ180海里九州大阪間の距離です
当時の陸路は悪かったと思うに出陸上はまつろから関門、大阪湾から奈良までこれで一月は掛かったと思います
1320メートルの高さから見通し距離で134キロメートル72海里
地形に妨げられて福岡県の端でさえ見えません
ドヤ、この考査は

mek********さん

2013/8/419:59:48

記紀は大和の記録なのでそのほかの国のことはよく分かりません
出雲のことも吉備のことも丹波のことも越のことも
どんな人がいてどんなことがあったかなんてこともちょっとしか分かりません

魏に使者を送っていた女王のいた「倭国」がもし北九州にあったとしたら
そこにどんな人物がいてどんなことをしていたかということが記紀に書いてなくても
ぜんぜん不思議じゃありません

実は記紀にはちょっとだけ北九州のことが書いてあります
崇神天皇の時代任那から大和に人がやってくるのですが
そのとき長門に王を名乗る人物がいたということが書いてあります
その人の名前が伊都ナントカって言うので北九州の王は実は伊都国の王で
長門にまで勢力を伸ばしていたということが分かるのです

よって正解は2ですね

sam********さん

2013/8/419:53:36

邪馬台国の記述に関しては、魏志倭人伝以外には記述がなかったと思います。
というのも、邪馬台国の使者が魏以外には行っていなかったのと、朝鮮半島は大部分が永らく【漢】の植民地であったりして安定していなかったので、記録が残っていない様です。

創作説に関しては、中国は次の王朝が前王朝の歴史書を編纂する為、自国の歴史書を作成するより客観性が高いと考えられています。ただし、終末期に関しては、悪政が原因で滅んだという形にすることで、現王朝の正当性を主張するのが通例となっている様です。
有りもしない国に関する記述をする必要性自体がありませんので、創作説の可能性は極めて低いと考えます。

【記紀】に記述があるとする説に関しても、記述があるはずだという前提で考えられている為、無理矢理当てはめているのではないかと感じます。
記紀には邪馬台国の記述は一切無いというのが私の考えです。
では、その根拠について説明します。

大和王権の成立が紀元三世紀頃であろうということは、ほぼ反論はないと思われます。
これは神武の東征が紀元前七世紀だと記述されている事を否定するものです。
では、神武の東征を開始した当時の九州地方の状況はどうだったのかを考えると、筑紫の崗水門に一年滞在しただけです。
この時期の九州地方は日向王国がほぼ支配下に置いていた可能性が考えられます。
邪馬台国の場合はどうかというと、多くの国に分裂していた様子が記述されています。
少なくとも邪馬台国の時代と神武の東征の時代は同時代ではないことになります。
従って、神武の東征を開始したのが紀元前七世紀で、大和王権誕生が紀元三世紀ではないかと考えて検証中です。
この説は、同時に邪馬台国東遷説を否定することでもあります。

また、神武の東征をしっかり読み込むと、記述には統帥が居る場所の情報しか記述されていないという特徴が見られます。
紀元三世紀に大和王権が誕生したのならば、邪馬台国があったとされる時期には、東征軍が大和地方を転戦していた事を示しています。則ち、大和地方に邪馬台国があったのならば、邪馬台国と東征軍が対峙した記述がなければならず、国の規模からしても、簡単に決着がつくような状況ではないと考えられます。
それが記述されていないということは、邪馬台国が畿内にあった可能性は無いということです。
中国地方には出雲と吉備勢力があり、大和王権の中枢に居た為、中国地方も可能性はありません。
紀元三世紀の九州はどうでしょうか。大和王権誕生期の九州に関する記述は一切ありません。
日本武尊の九州征伐の時には日向王国は既に滅んでいた様ですが、紀元三世紀にも日向王国は既に滅んでいた可能性があります。
でも、記紀にそういう情報は一切無いのです。
則ち、ヤマト王権は東征を開始した後の九州地方の情勢を把握していなかった可能性があります。
というのが私の説です。

zev********さん

2013/8/419:48:00

魏志倭人伝の記述がウソや創作だと主張するならば、なんのためにウソや創作をする必要性があったのか、それを説明する必要があるでしょう。

記紀については、「記録を残す側の都合」がある程度反映されている、とみるべきでしょう。
まぁこれは、どんな史書にも言えることですが。

実例としては、記紀はいくら読んでも天武天皇の年齢がわからない、という例があります。
こういう、書く書かない以前に、「書けない」という政治的事情があった、とするのが妥当だと思います。

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