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江戸時代の旅人の食料は、糒などの携帯できるものと聞きました。しかし栄養学的に...

dentarou7toraoさん

2007/4/2401:45:25

江戸時代の旅人の食料は、糒などの携帯できるものと聞きました。しかし栄養学的に言うとビタミンやミネラル、たんぱく質が不足がちになると思うのですが?それと食事の回数は?

やはり、現地調達でまかなったのでしょうか?また、旅する距離や職業などで違うと思いますが、旅費は平均的にいくら所持していたものなのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2007/4/2407:32:21

香仙

これは香煎のことで別名オチラシ・炒り粉・むぎこがし・八袋粉である。最近は珍しくなったが、小生等子供時分にはよくおやつとして食したものである。ハッタイコと言っていた。

大麦粉:東京では「こがし」または「みずのこ」、京都では「はったい」、筑前では「はったいこ」、加賀では「麦炒粉」、薩摩では「麦の粉」、江戸では「麦こがし」、近江では「炒粉」、奥州・上総・下総では「香煎」という。

~図説江戸時代食生活事典・雄山閣~

旅の携行食としてもそば粉でなく、この麦こがし(ハッタイ粉)が良く利用されていた。

辺路の接待として十返舎一九文政四年刊行『金草鞋第十四編四国遍路』にも、「むぎこがし」や「はったい」が登場している。

なお『四国順礼道中記録』には「くき」というのがある。これは「ふき」ではなくて、タイモのくきのことだそうだ。
www2.ocn.ne.jp/~e-kiyo/gaku6-5.htm

.「旅」が物見遊山(ものみゆさん=観光)になるのは江戸時代になってからです.
当時の人は「わらじ」を履いてこうした道を1日約35キロから40キロも歩きました.東海道ですと約2週間かかる計算ですね.当然こうした人を泊まらせる「宿」が街道筋に出現します.そこではもちろん食事も出ましたが,お酒や白拍子(しらびょうし=踊りを踊ったりお酌をする女性)もいたようです.危険さえ伴う道を何十キロも歩いたのですから,せめて泊まるところくらいでは楽しいこともなければ・・・という人の心をみたすサービスというわけですね.
もちろん,町や村にはいると「食べ物」を売る店もありましたが,今のように沢山のメニューがあるわけではありません.その地方でとれた魚や野菜それに御飯程度のもです.ですから食べそこなった時のために,干した魚や栗,お米などを携行食として持っていました.それに,宿屋は主に街道筋にある村や町に作られましたから,そこまで行き着かなければ「野宿」ということだってあるわけです.

「娯楽の江戸 江戸の食文化」 三田村 鳶魚



 「大体、この食物を買って食うということは、旅からきている。
旅行によって起こったことなので、本来はめいめいの家で自ら供給
しているものが、旅に出るとどうしても他の供給を受けるより仕方が無い。
そこで、路銀(旅の費用)、旅人用というものは、必ず貨幣を持って出な
ければならない。」

旅によって紙幣経済が一般化する。旅の食物として料理屋があらわれる。
外で飲食は、旅と貨幣経済を前提としている。

「寛政度(1789~1800年)には、煮売酒屋がなかなか商いが盛んになる。」
この煮売酒屋で居酒されるようになったのが、居酒屋の原型とみられている
www8.plala.or.jp/YOCKEY/sake9.htm

page.freett.com/momijihp/7-6.htm

質問した人からのコメント

2007/4/27 23:48:48

成功 ご丁寧なご回答ありがとうございます。旅人が貨幣経済発展を担っていたとは、知りませんでした。確かにツケはきくわけないし、物々交換では不便だし。目から鱗が落ちた気がしました。

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