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上野公園に西郷隆盛の銅像がありますがなぜ上野にあるのですか? くだらない質問...

mqn********さん

2007/4/3020:07:52

上野公園に西郷隆盛の銅像がありますがなぜ上野にあるのですか?
くだらない質問ですみません。

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kos********さん

編集あり2007/5/400:39:39

なかなか、深い意味のある質問と思います。
あまり考えたことはありませんが、この立地選定には、それなりに意味があるのではないでしょうか。

上野には、西郷隆盛と歴史的な、ある種の「ゆかり」があります。
それは、江戸時代の末期にあった「上野戦争」の立役者の一人が西郷隆盛だった、ということです。
 いまの上野公園は、江戸時代には上野山東叡山寛永寺といいまして、徳川家の菩提寺でした。寛永寺本坊の規模は当時3,500坪(約11.5ヘクタール)という広大な敷地でした。つまり、上野公園と上野動物園一帯は寛永寺の敷地だったのです。
 戦争の起きた時は慶應4年5月15日でして、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊(江戸幕府の残党であり、正規軍とはいえないようですが)と、新政府軍(薩摩、長州、土佐、佐賀などの連合軍)との戦いです。
 最初のうちは、彰義隊もかなり善戦したといえます。
 しかし、西側からの肥前佐賀藩によるアームストロング砲が、加賀藩邸(現在の池之端付近の東京大学)から不忍池を越えて砲弾を打ち込まれるようになり、相当の威力を発揮したことから、戦局が決定されました。
 南からは寛永寺黒門口に薩摩藩の西郷隆盛が、当時における最強の薩摩軍主力部隊を指揮し、防備を破って攻め入り、最終的に戦争に勝利しました。これは西郷隆盛が41歳のときでした。

 上野戦争については、「彰義隊」(吉村昭)や「彰義隊遺聞」(森まゆみ)にも書かれていますが、
↓にも、詳しく書かれています。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/ueno/main.html
 http://www.globetown.net/~hara_1962/BAKUMATU/bakumatu_03.html

 銅像の建っている場所は、ちょうど西郷が攻め込んだ場所の入口近くです。
ただし、西郷隆盛の銅像の向きは、攻める方向ではありません、逆です。
 皇居に向いているということもありません。
 位置関係も地図を見ながら考えてみると、台座自体はほぼ南向きで、像は30度東向きです。
 上野から東南の方向、つまり、東京湾の方向を向いています。像の向きには特に意味を持たせていない、ということではないでしょうか。

 http://humsum.cool.ne.jp/ue-34.html
 ちなみに、西郷隆盛の銅像の後方には、彰義隊の墓があります。

 西郷の銅像ができたときの様子が下に紹介されています。
 最初は当時、ただ一人の陸軍大将らしく、軍服姿で計画されたが、途中で変更されて今の姿となったようです。当時、軍服姿では西南戦争を想起させてしまったことでしょう。
 ただし、本人の写真が残っていないため、キヨソネというイタリア人版画家が描いた肖像画を参考にしたようですが、これは弟の西郷従道と従弟の大山巌を混ぜて描いたとか。
 というわけで、実際に雰囲気が似ているかどうかは分かりません。
 奥さんが「こういう人ではない」といったのは、浴衣姿で散歩はしないから、ということのようです。
 http://www.keiten-aijin.com/yurai.html

 実際に西郷に会ったことのある(らしい)人の描いた肖像画は、こうです。
 http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0401_18.html

 西郷像については、いまでも立場により賛成・反対はあるとしても、100年以上同じ場所にありますから、それなりに尊重すべきであると思います。

(おまけ)
 上野戦争の総指揮官であった大村益次郎の銅像は、靖国神社にありますが、上野山の方向を向いています。上野戦争の戦況を眺めているところ、という説があるようです。そういえば、戦闘スタイルですし、遠眼鏡も持っていますね。
 
(おまけ2)
 西郷隆盛の銅像を製作したのは、高村光雲です。名前から分かるとおり、高村光太郎のお父さんであり、有名な仏師、彫刻家です。もともとは、仏師であることから木彫が得意なのですが、皇居前の楠正成も同じ作者です。
 そのほか、高村作品では「老猿」(国立博物館)が特に有名です。
 この「老猿」をみるだけでも、高村の力量は納得できます。
 http://www.ccma-net.jp/publication_artnews/VOL22.PDF
 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/284.htm
 
l なお、隣の犬の制作は美術学校(現芸術大学)教官の後藤貞行で、西郷像の製作者とは別人です。
 
 鹿児島の銅像は、下記です。こちらの作者は安藤照という方で、渋谷にあるハチ公銅像と同じ作者です。作品を見る限りでは、美術学校(いまの芸術大学)を出ているとはいえ、高村光雲に比べ、力量がいまひとつ。
 鹿児島の銅像では、軍服で威勢が良いとはいえ、リアリティに乏しいのが残念です。
 「3倍近い大きさ」があっても、作者に芸術魂がなければ、人の形をした、ただの金属の塊です。
 ただ大きければ優れた作品になる、というわけではありません。
 計算された作風ではなく、計算できない作風なのです。
 http://www.yado.co.jp/kankou/kagosima/kagosi/saidou/saidou.htm

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tho********さん

編集あり2007/5/703:24:04

明治政府にとって西郷隆盛は士族の代表、旧勢力の象徴でした。

靖国神社といえば、今でこそA級戦犯の墓みたいに言われていますが当時は明治新政府の氏神で、そこにある大村益次郎の銅像は新政権の象徴だったのです。
明治15年に建立が発議され指名された彫刻師大熊氏廣はパリ美術学校やローマ美術学校に留学して明治26年に日本最初の西洋式銅像を建立したのです。

西郷隆盛の銅像はその26年に起工、民間の基金によって資金が集められ30年に完成しました。
要するに大村益次郎と対として、旧政権の象徴として上野に造られたのが西郷隆盛像なのです。

鹿児島県民として言わせてもらえば、
着工の動機からして非常にいかがわしいし場所だっておかしい。
なにより格好が西郷南州翁としての威厳が欠片もない、情けないまでにしまりのない表情です。

鹿児島県の城山にある軍服姿の西郷隆盛像に比べれば、月とすっぽんと言っても言い過ぎじゃありません。
おそらく大村益次郎像の方が主役で、それにまともに対抗するような銅像を造るわけにいかなかった。
だからあんな庶民的な銅像になったのでしょう。

実は、東京の銅像の代表と言えば戦前は大村益次郎像の方が有名で西郷像なんて殆ど知られていませんでした。
今でこそ西郷像は東京の銅像の代表みたいに言われていますが、これはアメリカ占領軍に対する卑屈な遠慮によって九段下の靖国から目を背けるしかなかった事情によるものなのです。


追加】
apocalypse666survivalさん、強い言い方をしてすいませんでした。
ただやっぱり、あの西郷さんはいりません、質が悪すぎです。

kosyukaido10さん、たぶん城山の西郷像を実際に観てないからそういう感想になるのだと思えますね。
実は城山の西郷像は、上野の西郷像に比べると3倍近い大きさがあるのです。
それ故に写真では「表現力に乏しく」としか見えない粗雑さが、肉眼で見ると無骨で凛々しげな強さに見えるのです。
あれは明らかに計算された作風だと感じられます。

一方上野の西郷像は、まさに腕自慢お国自慢というべき物
まさに計算されていない作風だと言えます。
これは靖国の銅像との対比で残酷なまでにハッキリとしてしまうのです。
失敗作なのだと。

靖国の大村像の下にはいつも人が集まっているのに対し上野の西郷像には誰一人いない。
大村益次郎の銅像の前には観光客も地元の人も絶えず集まっているのに対し西郷像には誰一人いない。
そう、西郷像には感動がないのです。

私も初めて上野の西郷さんを見たときは、まるでプラモデルの西郷さんを見たようで失望した覚えがあります。
「これがあの…有名な………」と愕然としてしまった。
公開の際に招かれた西郷夫人糸子が「宿んしはこげん人じゃなかよ」と絶句した意味が初めて分かった気がしました。
たぶん似てなかったとかそんな些末的な理由じゃない、まさに魂のない人形という所にあったのでしょう。

確かに上野像は精密な彫刻が施されている。
おそらく靖国大村像に対抗して精密な作りをしたのでしょう。

だが、靖国大村像はその配置に厳密な計算が施されている。
遠くからよく見えてもハッキリと分からない、それなのに近づくにつれその脈動感が目立ってくる。
それなのに近づくとまた台の高さ故にハッキリと分からなくなる
近づくにつれ段々と変化していく、その近寄りがたさ、意外性が人を絶えず引きつけ続けるのです。
だが上野西郷像はその計算がない。
上野像は意外性が全くないのです、写真と変わらない。
人はそれを観ても誰も引きつけられない、だからみんな寛永寺の不忍池に行ってしまうのです。

apocalypse666survivalさんの感想が、悲しいまでにその現実を示しています。
誰からも愛されない銅像、都民ですら捨ててしまいたいと言い出す銅像、
リアリティと技術力だけが押しつけられた、まさに芸術魂のない、人の形をしたただの金属の塊なのです。

一方鹿児島の西郷像は県民から愛され、戦時中も軍から徴収を受けたとき断固として反対し必死で守られた銅像でした。
大きい芸術品は、それ故に巧みな計算と技術力がモノを言います。
確かに城山の西郷像は御大層な芸術家に認められた権威ある作品ではありません。
だがそんな権威主義に何が分かるでしょう、城山の西郷さんは県民に愛される万人が認める素晴らしい芸術作品なのです。

編集あり2007/4/3021:27:29

あの銅像は本来は皇居のなかに建てられる予定だったそうです。
若き日の明治天皇は西郷ドンをすこぶる敬愛していた。
ところがさすがに賊軍の銅像はまずいということで
皇居を向く格好で上野のお山に変更されたという話です。

apo********さん

編集あり2007/5/110:39:23

くだらなくは、ありません。



薩摩人が、東京と言うか江戸に出てきた記念に『西郷隆盛の銅像』をあそこに置いたんです。
本当に。

だから、東京では『鹿児島に西郷隆盛の銅像を返そう』という運動があるのです。

一応、幕軍の意見でした。

鹿児島に返しましょう。


補足、 thor1203さんへ、ありがとう。上の文を訂正します。

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