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龍造寺氏は沖田畷での大敗後、当主隆信を討ち取った仇敵島津氏に臣従の道を選んで...

jaz********さん

2013/10/900:59:29

龍造寺氏は沖田畷での大敗後、当主隆信を討ち取った仇敵島津氏に臣従の道を選んでいますが

隆信の仇討ちに怒り狂って島津氏に徹底的に抗戦するよりも、九州統一に邁進する島津氏の勢いを認め、あえて臣従する道を選んで御家存続を図った龍造寺政家や鍋島直茂などの現実的な選択だったんでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

cuk********さん

2013/10/910:17:03

現実的だったと思います。

まあ本来、徹底抗戦を唱えるはずの武闘派(龍造寺四天王)は全員沖田畷で討ち死にしていますから
残った有力な家臣と言えば知性派の鍋島直茂くらいなものです。

鍋島は中央政権には豊臣が台頭しており、大友家を衰退させた毛利家ですら豊臣に臣従している事を知っています。

なので今戦っても勝てない(=戦ったらほぼ確実に滅亡)島津家に臣従し、極力今の勢力を維持させる。
そして後々に九州を施政に置くであろう豊臣とよしみを通じておけば、龍造寺家を優遇してくれるだろうと考えたんだと思います。
現に豊臣は九州征伐の筑前・肥後の戦いで、龍造寺氏は簡単に寝返っています。

鍋島直茂には先見の明があったんだと思いますよ。

質問した人からのコメント

2013/10/12 09:01:23

成功 御二人とも有難う御座いました!

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

da1********さん

2013/10/919:36:16

九州に限らない話ですが、中世の武士はあまり滅亡するまで戦うことは無く、負けたら降伏したり、隠棲したりして時期を待ち、家を再興する、ということはよくあることでした。

龍造寺隆信の父祖の代が皆殺しにされて滅亡し、曾祖父家兼が潜伏の後に龍造寺家を再興したことはご存じだと思います。隆信本人も一度城を追われ、雌伏の後奪回しました。

他にも降伏を含めれば少弐氏、秋月氏、筑紫氏、神代氏、菊池氏など枚挙にいとまがありません。
秋月氏は本城を落とされ、当主を殺され、毛利家に亡命しながらも大友配下として戻っています。たびたび反乱しますが。
雌伏したまま再興の機会を得なかった家も多々あるでしょう。

例え当主を討ち取られても、後につなげるために落ち延びる、あるいは降伏するということは当時としては常識です。

結果的に豊臣秀吉がそのまま天下を統一したことで、後世の目から見れば「一回しか起こらなかったできごと」のように見えます。
しかし、たびたび起こったことの最後の一回を特別視してしまっただけ、ということはよくあります。
例えば足利将軍は何度も京都から追い出されていますが、織田信長が足利義昭を追放したことを特別視して「滅亡した」と言う誤解はよくあります。なんどもあったできごとの最後だっただけです。

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