三国志の諸葛亮について。 諸葛亮は、気に入らない人物は左遷したり粛清したりする人物だったのでしょうか? 諸葛亮を敬愛する陳寿が書いている正史からもそう読み取れるというのでは、実際はもっと酷いものだっ

三国志の諸葛亮について。 諸葛亮は、気に入らない人物は左遷したり粛清したりする人物だったのでしょうか? 諸葛亮を敬愛する陳寿が書いている正史からもそう読み取れるというのでは、実際はもっと酷いものだっ たのではないかと思えるのですが…。 劉彭廖李劉魏楊伝(特に最初の二人)は言うまでもないですが、 楊洪伝に登場する黄元は、諸葛亮に気に入られていなかったので劉備の死後を恐れて反乱に踏み切ったようですし、 費詩伝では費詩が左遷されたことについて、習鑿歯と裴松之と陳寿が寄って集って諸葛亮を弁護していますが、逆に不自然というか…。 諸葛亮の政治は公平で完璧、皆がこれを慕っていたのだというような評判には、首を傾げたくなるのですが…皆さんの御考えを教えてください。

補足

諸葛亮の狭量さや猜疑心故に暴発した人が多い気がするんですよね…彭羕とか黄元は特に… なんか、末期の劉邦みたいだな…と私は思ったり

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ベストアンサー

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諸葛亮の出師の表では「後漢が滅んだのはつまらない人物に親しみ立派な人物を遠ざけたから」と言っています。彼の人事の価値判断は「まじめに職務する」「精一杯頑張る」とかそういう感じなんでしょう 曹操のような清濁併せのむ人事とは違うタイプ。 左遷や粛清も時には必要です。 それらをしないで国を崩壊させたら元も子も無いでしょうし・・・(まあそれらの判断は諸葛亮がやっちゃうわけですが) 別に諸葛亮が聖人君子とは思いませんが立派な政治家だとは思います。 諸葛亮は「政治」として左遷したのであり「君嫌いだからあっち行け」という理由ではないと思いますよ。。「後頭部が出っ張ってるから」というのは逆に諸葛亮を貶めていますな(笑) ①劉封・・・後継者争いの火種を消すため・・・ 曹魏ですら曹ヒ派と曹植派で争っていたのですから・・・ 劉備軍で争っている暇はないでしょう。 というか諸葛亮が劉封に私怨なんてあるんでしょうか。 ②彭羕・・・左遷されたら馬超に謀反を唆す。 「こういうことをしそうだから安心できない」(謀反しなかったら諸葛亮がひどい扱いになるでしょう) 荀彧が袁紹陣営を批評したのに似ています。 左遷したのは劉備と一緒に相談したうえで決めた。 ③廖立・・・いろんな人を誹謗する。 曹操や荀彧をこき下ろした禰衡のような言動。 こういう人をほうっておくのは国の威信にかかわるのでは・・・ この人自身諸葛亮死亡を嘆いた ④李厳・・・職務怠慢ゆえ? 確かに急に平民に落とすのはどうなんでしょう・・・たぶん意見の分かれるところ 左遷する前はむしろ良き協力者として厚遇してると思うのですが・・・ ⑤劉琰・・・車騎将軍のくせに職務怠慢(この人何かしたのか?) 魏でいう張コウが働いていないようなもの。 魏延と仲が悪かったとか。 劉琰自身に罪はないかもしれませんが魏延と連携取れなかったらヤバイでしょう。 お飾り将軍?が前線に居てもこまるでしょうし・・・(政治的には仕方ないのか・・?) ところでこの人の最後はかわいそうですね。 ⑥魏延・・・諸葛亮の価値判断では後継者になれない。 諸将と連携があまりとれない。 しかし武将としてはむしろ最も頼りにしてたでしょう。 冷遇より厚遇してたのでは。 ⑦楊儀 ・・上と同じくだめ。 「魏に行けば良かった~~」 蜀の大臣が吐く言葉じゃありませんよ。 ⑧黄元・・・②と似たような感じ。 というか安心できない人手元におけないでしょう。 魏でいう夏候一族も宗族もいない蜀ですから。 ⑨費詩・・・ 皇帝即位ムードを壊す。 費詩が「左遷されるべきか否か」は人により違うんでしょう。 考え方もいろいろありますよ。「正統論」ってやつでしょうか? 諸葛亮は後に復帰させてるし、諸葛亮が気に入らなかったから左遷したわけでもないような・・・・ 自分の感想としては諸葛亮が悪意で人を左遷しているわけではなく、 その判断も特別間違っていることもないと思います。 もちろん人それぞれ感じ方は違うでしょうから、人物の評価も変わってくるでしょう。 そこが「三国志」の面白さですよね。 長い投稿失礼しました。 ※補足について そう思われますか、なるほど・・・。 諸葛亮が下した処置を不服に思う人もいたと。 (彭羕 黄元がその例?) それだと、評判である(「完璧」で公正な政治)を「文字通り」受け取るのが難しい、のも分からないでもないですね。 自分が彭羕 黄元に対して思うのは「将来不安ゆえの暴発」というより「死に掛けの蜀を劉備に成り代わって奪う」という野心の表れだと思います。 不安なら魏や孫呉に逃げればいいのに・・・ 劉封処分で「不安分子である俺たちは消される!」と思ったのかもしれませんが・・・ どっちにしろ2人共「積極的な忠臣」とは言えないでしょう。 「彭羕は傲慢 黄元は凶暴」らしい・・・ 「手元に「忠臣」とは呼べない言動を繰り返す信用できない人達がいる」場合にどういう行動を取るべきかを考えた場合、諸葛亮の選択は間違っていないと私は思うんですよ。 劉備、蜀漢も安定した基盤が欲しいはず。 手元を忠臣多めにするのは正しい選択だと思いますよ。(有能な人は忠臣でなくとも使う。・・・もちろん利害を天秤にかけて、 なんですが) 地方とはいえ2人とも太守ですし・・・それを不服に思うのって「それ本当に不服なのか?」と思います。(彭羕は後に自分の過ちに気づいた) 曹魏で言うなら許攸・・いや、それ以上にひどいでしょう。 ※補足2 上の方々の意見は的を得ていると思います。諸葛亮は厳格な法家主義を貫いたんでしょう。ところで劉封の上庸派遣はかつて劉奇が江夏へ赴任したのに状況が似ていると思いませんか? 怪しい孟達の監視というより、政治的混乱を避けるべく劉封を成都から遠ざけたような感じがします(それの補佐が有能な孟達)(露骨な左遷でないのがミソ?)

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆さんありがとうございました 相変わらず私が穿った見方をしすぎだったようですw

お礼日時:2013/11/15 8:13

その他の回答(3件)

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ん~。 狭量といえば狭量ですが、まあ、思うに、孔明と曹操や劉備では立場が違う、ということではないでしょうか。 曹操や劉備は、言ってみれば専制君主で、多少のわがままやえこひいきも許される立場でした。 許されるというか、それで、組織が大きく崩れることはないというか・・・、まあ限度はありますが。 孔明は、事実上の蜀の主とはいえども、立場は一臣下です。 一臣下が専制的な権力を振るうと、それが後々の弊害になるのは間違いのないことです。 孔明が公明正大な政治であった(もしくは公明にありすぎた)のは、つまりはそういう事なのだと思います。 劉封も彭羕も、まだ劉備の存命中のことで、こちらの決断は劉備のもの。 これで孔明が佞臣で讒言を吐く人で、劉備がバカ殿というならまた、別ですが、劉備にも人を見る眼はありますから、二人の総意でしょう。 劉封は、多分に劉備の感情も入っていますし、まあ多少は孔明が焚き付けたきらいはありますかね。 費詩も劉備時代の左遷で、孔明は特にひどい扱いはしてませんね。南征に従軍したとあるので、むしろ名誉回復してるんじゃないでしょうか。 廖立も傲慢さがだめでしたね。 李厳は孔明の理解者であり、得がたい人でしたが、処罰しました。馬謖と同じで、孔明にとっては辛い判断だったと思います。 劉琰も孔明は別になんもしてませんね。談論好きで実務能力は低い人みたいで、長らく劉備の賓客扱いだった人ということで、まあ、許靖なんかと同じで名誉職的に高位にいただけでしょう。 どうも、晩年は認知症だったんじゃないですかね。失志慌惚、とあり、その後に妻の胡氏を離縁しています。 魏延・楊儀はまあ、自業自得ですね。黄元も。 孔明は一臣下の立場でしたから、何よりも秩序を重んじたのだと思います。 下克上の風潮を退け(上司を激しく非難したり、自分の現状を嘆いたりするタイプ)、過失には必ず処罰をもって報いる、という事を厳しく行ったのだと思います。 蔣琬らの助命も聞かずに馬謖を処刑したり、李厳を平民に落としたり、もし孔明が劉備の立場だったらやりすぎだったかもしれませんが、丞相という立場では、なかなか難しいトコだったのでしょう。少なくとも孔明はそう考えたのでしょう。 黄元なんかは、どういう理由で孔明に嫌われていたのかは知りませんが、一人合点で反乱したようです。 おそらく、孔明は、かくのごとく私情を挟まず、個人的に気に入らなくても、殺すようなことはしなかったと思います・・・出世させたかは別ですが。 まあ、ある意味、冷徹に人物を評価して危険因子を未然に潰していたのでしょう。 まあ、曹操のように、才能さえあれば、性格はどうでもいいという斬新な登用ではなく、オーソドックスな儒教的な思想で、能力よりも人格優先の評価だったのかな、という感じはします。 ただ、すでにあるご回答にあるように、こうしたしっかりした組織を作り上げれば、下っ端は仕事がしやすく、安心できますから、孔明をみんなが慕ったというのはわかる気がします。まして、ちょっと前の劉璋がちゃらんぽらんでしたから、なおさらでしょう。 これは、蜀科を制定したころの議論でもわかります。孔明はあえて厳しい法律を制定して、人民を引き締めに掛かったわけです。当然、それで上の者のいい加減を許すわけにはいかなかったでしょう。 補足について 思うに、孔明は狭量な部分はあったとは思います。杓子定規というか、厳格すぎる面はあったかと。 しかし、猜疑心といえば、これは違うかなあ・・・。猜疑心というのか、不安要素は少しでも除くという発想でしょうか。孔明の北伐戦略にもそういう孔明の性格は見え隠れしている気がします。 実際、彭羕や廖立が出世して高位に就いたとして、彼らが孔明のように謙虚で法に厳格な政治を行えたかは疑問です(無能ではないからなおさら厄介でしょう)。 逆に、直言を吐く費詩のような人でも、孔明はことさら嫌ったりはしません。孟達の反乱に際しては、多少不明瞭ながら、費詩の意見を受けて、孔明は結局、孟達を見殺しにした感じもします。 んまあ、孔明が丞相ではなく、皇帝だったら、どういう人事を行ったでしょうかねえ。 人を使いこなす自信があれば、曹操のような能力主義でいったかもしれませんが、どうも孔明は儒教的な道徳主義なタイプに思えますね。 孔明の場合仕える主君の劉禅が、善良だけども人に影響されやすい、流されるタイプでしたから、彭羕とか、そういうクセのある人を劉禅の側には置きたくはないでしょうね・・・。 孔明が作り上げたガイドラインのおかげで、良くも悪くも費禕の時代までは、凡庸な劉禅を主君としながらも大きな混乱もなくやっていけた、という感じはします。もしかしたら、孔明の道徳主義は、劉禅の性格を慮ってのことだったのかもしれません。

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諸葛亮の公正さで困惑するのは朝廷や行政に仕えている家臣たちです。 一般の民にとっては法を公正に執行してくれる諸葛亮はありがたい存在です。 (普通は賄賂がまかり通って法がねじ曲がるのが中国です) 家臣から見れば、賄賂を受け取らず公私混同しない諸葛亮のような存在は怖いのです。 家柄とか血筋とか私的な付き合いとか賄賂とかが通用しない。 むしろ、賄賂を受取ってくれた方が安心できたのでしょう。 当時は賄賂のやりとり・一族に仕事を融通する・金貸しや金儲けなどは当たり前に行っていた時代です。 反乱したり左遷されたりといった人物は、思い当たることがあり過ぎるぐらいあると思います。 当時は犯罪を犯すと一族にも類が及びますので、反乱したほうの人物や一族のほうが猜疑心に捕らわれていて、一族の中から「このまま黙っていては殺されるだけ」という考えが出てきて、「反乱すべき」という行動に出たのではないでしょうか。 諸葛亮は猜疑心が強いのではなく、全く中立的に物事を見て判断しているので、相手側から見れば冷たい処遇を受けたと感じるのかもしれません。 中国は、三国志以前から疑心暗鬼になってこんなことばかりです。 忠誠心だけで仕えているのではなく、利益でも主従関係を結んでいます。 諸葛亮の家臣たちへの処罰に関してはかなり甘いと思います。 軍令違反した人物を処罰していないことも多いので。 処罰するにしても、よほど証拠がしっかりしていないと処罰に踏み切っていないと思います。

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三国志(演義)の時代背景は君主制の政治ですから、公平な政治(民主政治)だったという情報は誤まりですね。