ここから本文です

歴史、征韓論の背景と士族の反乱 テキスト文面について教えて下さい。 戊辰戦...

oro********さん

2014/2/2109:10:43

歴史、征韓論の背景と士族の反乱
テキスト文面について教えて下さい。

戊辰戦争に参加した士族の中には、政府に意見が通らないことに不満をもつ者が出た。
このような士族の関心を海外にむ

けさせるため、薩摩藩出身の西郷隆盛と土佐藩出身の板垣は、征韓論を主張した。朝鮮に開国をせまり、国交を結ぶべきだという意見は岩倉具視らに反対され、西郷隆盛,,板垣らは政府を去ることになった。

★岩倉具視らは、欧米に学びに行く最中
なぜ韓国?征韓論?なんですか

小5レベルで分かりやすく教えて下さいm(__)m

補足歴史質問2つあります。合わせて解答宜しくお願い致しますm(__)m

閲覧数:
519
回答数:
2

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

2014/2/2111:58:07

1.1867年王政復古のクーデター、1868年からの戊辰戦争で徳川幕府が滅び、明治新政府が出来る。

2.幕府が滅びたことで、侍たちはリストラされる。→不満を持つ士族たち
*一応新政府から退職金はもらえましたが、新政府も財政難なので額は少なく…。それを元手に慣れない商売をやっても失敗するケースが多かったようです。「士族の商法」ってやつです。

3.1871年、幕末に幕府が締結してしまった「不平等条約」を改正するため、政府首脳の半分がこぞって欧米に外遊することになる。=岩倉使節団
*岩倉使節団の主なメンバー…岩倉具視(右大臣、公家)、大久保利通(大蔵卿、薩摩)、木戸孝允(参議、長州)、伊藤博文(長州)
*留守政府の主なメンバー…三条実美(太政大臣、公家)、西郷隆盛(参議、薩摩)、板垣退助(参議、土佐)、江藤新平(参議、肥前)

4.岩倉使節団の外遊は当初の予定より長引く。その間、留守政府では「征韓論」が持ち上がり、閣議で朝鮮に使節を送ることが決まる。
*江戸時代、幕府と朝鮮は対馬藩を通して通交していました。対馬藩は、幕府と朝鮮どっちにも帰属していて、幕府に渡された上から目線の国書を改竄して朝鮮に失礼の無い内容にして朝鮮に渡し、朝鮮からの国書もまた同様に…と、どちらの立場も立てて上手いことやっていたそうです。
ですが、明治政府になってからそれをやらなくなったので、明治政府から朝鮮への国書は偉そうで無礼なものとなりました。これに反発した朝鮮は国交を拒否します。この頃の朝鮮国王が異人嫌いだったこともあり、日本の要請はことごとく拒否されます。これを受けた日本は怒り「朝鮮は無礼だ!戦争だ!」となるわけです。
ちょうど日本国内では士族が不満を溜めていたので、その不満を国外に向ける良い機会でもありました。

5.1873年、岩倉使節団が帰国する。欧米で最先端の技術や文化を見てきた岩倉使節団のメンバーは、「戦争なんてやっている場合じゃない!早く日本を発展させないと!」と思い、留守政府の決定していた「征韓論」に反対する。

6.結局、天皇を動かして勅書を出した使節団側が勝利し、負けた西郷・板垣・江藤らは政府を去る。

という感じです。
長くなってしまいましたが、これでもだいぶ削ったんですよ…




☆薩摩好きが西郷について語りたいだけの読まなくていいおまけ
4.で「使節を送ることが決まる」と書きましたが、この時点では「使節を送る」だけで、「いきなり戦争を仕掛ける」ことは閣議決定されていなかったからです。
というのは、武士の魂を持ち、大義名分を大事にする西郷どんとしては、「いきなり戦争を仕掛ける」ことは無礼で「大義に反する」ことだからです。
西郷の考えは、「まず自分が使節として礼を尽くして朝鮮に行く、そうしたら朝鮮は必ず自分を斬るはずだから、「使節を殺した」ことを理由に兵をあげれば良い」とのことでした。
回りくどい上に「必ず自分を斬るはず」って…どんだけ朝鮮を野蛮だと思ってるんだ、という感じですが、結構この認識は当時の政府首脳共通のものだったので、西郷が特別朝鮮を下に見ていたというわけでは無いです。
西郷は不平士族の処分に心を痛めていたので、士族に死に場所を提供してあげたかったのだと思われます。
あと西郷もそろそろ死にたかったんだと思われます。武士って畳の上で死にたくないものでしょ(偏見?)どうせなら斬られて死にたいし、自分が死ぬことで国内がまとまるなら…みたいな。

ですが、この「征韓論政変」はまだまだ色んな説がありまして、毛利敏彦さんという方は「西郷は朝鮮と戦争する気はなかった。「自分が使節となって斬られに行く」というのは、バリバリの主戦派である板垣を味方につける為の方便で、本当に礼を尽くした使節となって国交を結ぶつもりだったのだ」という説を唱えております。私はイケメン平和主義西郷どんなこの説がとても好きなのですが、いかんせん広く知られて「通説」となっているのは最初にあげた説ですので一応。
興味があったらぜひ中公新書の毛利敏彦著『大久保利通 維新前夜の群像5』や同じく『明治六年政変』なんかを読んでみてください~

質問した人からのコメント

2014/2/21 20:02:31

感謝 ありがとうございます^^今からコピーして勉強します。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

cre********さん

2014/2/2112:51:58

戊辰戦争に参加した倒幕軍側の侍達(特に下級の)の中には、此の戦いの意義を正しく理解して居た訳では無かった者達が少なからず居た模様で、薩長幕府が出来て自分達が一国一城の主や幕臣見たく成ってイイ思いが出来ると踏んで居た様な輩が可成り居たと思われます。
此の様な侍達にとっては四民平等や廃刀令に始まる新政府の武士階級の解体政策は到底許容出来るモノでは無く、世の中に大きく不満が充満為る事にも成りました。
所で、岩倉使節団の外遊中の留守を預かる事に成ったのが西郷で、此れは岩倉の他に大久保・木戸・伊藤等の首脳が何れも留守を為る事に成った事からも当然の人事と言う事に成り、実際此の時期に難題の廃藩置県が滞り無く実施為れて居り、留守番としての西郷の政治的な手腕自体は至って旨く行って居たと言う事に成ります。
其の上で西郷の目論見としては、廃藩置県で浮いた失業武士(最大で五十万人とも)を外征に向けると言うのがセットの発想だった模様で、此れは西郷が外征を失業対策として考えて居た証左と言えるかと思われます。
詰まり、岩倉使節団の外遊⇒西郷の留守番⇒廃藩置県+外征(=征韓論)、と言う繋がりに成ると考えられます。
西郷としては使節団の帰国次第、直ぐにも遠征に踏み切れると踏んで居た様なのですが、逆に海外で知見を広めた外遊組から思わぬ反対を受ける事に成り、予期せぬ展開に下野と言う事に成るのかと思われます。

(|…o±\o

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる