ベストアンサー
本当ですが、誇張されて受け止められているきらいがあります。 京都の街は応仁の乱以降、幕末の戦乱、第二次世界大戦で小規模な被害を受けたことはありますが、 街中が廃墟の様になったのは応仁の乱が最後です。 なので、京都の重要な建造物は応仁の乱の以前か以後に建てられたかで取り扱いが違います。 それを「先の戦争(応仁の乱)にも燃えずにすんだ」等の言い方をします。 世間に伝えられているのは「京都の人の特異性/歴史を自慢しているような」言われ方をしていますが、 代々千年の都に京都の人にとって、応仁の乱は平安京遷都以来、都を舞台にした唯一の大戦争なので、 いたって真面目に「先の戦争」=「応仁の乱」と言われています。(ただ年配の人だけですけどね)
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質問者からのお礼コメント
皆さまご回答ありがとうございます。
お礼日時:2007/8/4 17:56
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本当です。 応仁の乱は、京都を焦土と化しましたが、それ以後、京都は戦争や戦乱により、 そのような破壊を受けたことがないからです。
ああ、学生時代の近衛文麿さんが、仲間に言ったという話ね。大切な古文書や文献が、先の戦争で随分焼けてしまった、というのが応仁の乱だったというヤツね。 本当なのかなあ、っていつも疑問に思ってたけど、被災の程度から言うと、たしかに応仁の乱の時の破壊が、最も徹底していたようですね。蛤御門の変の時は、たった一日の戦いで、それも戦火だけだったけど、応仁の乱は足かけ11年、焼かれた上に徹底的に略奪されたらしいものね。しかも皇居も、周囲の貴族の館も全てやられたのは、このときだけみたいだしね。きっと五摂家の末裔たる近衛さんにとっては本当の事だったんじゃないのかなあ。
ID非表示さん
2007/7/29 10:48