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豊臣秀頼は臆病だったのですか?('・ω・`)

ec0********さん

2007/10/1203:17:54

豊臣秀頼は臆病だったのですか?('・ω・`)

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nom********さん

2007/10/1203:29:04

ひどくマザコンで母の淀の言いなりで死んでいきましたが
淀が居なければどうであったでしょうね。
すでに歴史が結末を出していますので、その辺は判りません。
160Kgとういう巨漢だったと書いてあります。
多少の才能はあったとしても
時間は遅くなってもやはり徳川の時代が
やってきたでしょう。

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jjm********さん

2007/10/1223:22:47

臆病というよりもまともな帝王教育を受けなかったため武将としての能力も無かったのです。
これは本人だけではなく淀君などの責任もあるのでしょう。
大坂の陣で結局、将兵の指揮を上げるために大手門まででも出てきてくれと牢人組の武将らが頼んでも決断が出来なかったように軍事や政治で判断するといった経験がなかったのです。
豊臣秀吉が秀頼の教育を頼んだ前田利家は早くに亡くなり徳川家康がわざわざ秀頼を立派に育てる労を取る謂れもないとすれば当時の状況では秀頼を後見するだけの経歴と力量のある武将はいなかったのです。
暗殺の危惧があったとはいえ幼い頃より城を出たこともないなど江戸初期の大名では稀有のことです。
少しのちまで水戸光圀のように高い身分でも遊郭に上がったり気軽に馬を走らせ民情を視察するのは大名として普通の時代だったのですから。

ypq********さん

2007/10/1203:43:17

秀吉死後、豊臣家の血脈は秀頼だけであり
甥の秀次一族は秀吉に粛清され弟の秀長も子が出来ずに逝去。
豊臣家を残すため秀頼に万が一何かあってはいけないと生母淀殿によって大事に育てられた。
豊臣家の血脈を増やすため15歳で嫡子国松をもうけ
19歳で二条城で家康に謁見するまで城の外に出ることもほとんどなかったようである。
二条城に行く際、淀川の川べりにいる牛を見てびっくりして家臣に「あれは何か」と問うたほどである。
秀頼が関ヶ原・大坂の陣で外に出、指揮を鼓舞していれば歴史は変わったともいわれる。

秀頼は2メートル近い大男で京の二条城で家康に謁見する際は
秀頼見たさに京の民衆が路上に溢れるほどの人気で
加藤清正や浅野幸長が秀頼を守るため付き従い福島正則はいざという時の為に大坂に残った。
家康は老いて出来た子ども二人(後の義直・頼宣)のことを宜しくお頼み申すと秀頼に言うと
秀頼は「心得て候」と答えるなど立派な武者ぶりであったらしい。
家康が秀頼と謁見してから方広寺の国家安康の文字が家康を割いてるなどと言いがかりをつけ滅ぼそうとするなど
躍起になったのは秀頼が成人して立派になったことと、京の民衆や豊家の武将に人気が絶大であったこと
源氏と平氏のように自分の死後、徳川家が豊臣家により滅ぼされるのではないかと恐怖したことが原因であると思われる。

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