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カトリックではカルヴァンの予定説を異端と考えるのですか?

nig********さん

2007/10/3011:21:18

カトリックではカルヴァンの予定説を異端と考えるのですか?

異端と考えるならば、誰が救済され誰が救済されないかについてどのような考え方を採るのでしょうか?
御回答よろしくお願いします。

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cio********さん

編集あり2007/11/101:00:04

ご質問は、人間の自由意志をどう捉えるかということかと思います。
カルヴァンは、神の全能の前に、人間の意志は完全に無力という見方をとりましたが、
カトリック教会の基本的な考え方としては、予定説は支持されていません。

キリスト教では、カトリックのように予定説を支持しないグループと、逆に支持するグループとがあります。
伝統的キリスト教の考えでは、正しい信仰に生きるものが救われるとしました。
人間が正しい道を選ぶなら、神による救済がもたらされるということです。
キリスト教に限らず、おそらく他の多くの精神文化においても 自然な救済論かも知れません。


予定説では、「救われる正しい信仰の人」は神によって予定されているとしました。
この教説は、救いに予定されていなければ 敬虔な人でも救われない...ということではなく、
「正しい信仰を持っている」ということ自体が予定されるべきもので、彼の救済は予定されているとされます。
逆説的に、この教説では 自分の救いのしるしを求め、信仰的に生きる...という言い方がされたりします。
(プロテスタント諸派は、信仰性や慣行に幅のある多様な教派を集合的に捉える概念ですが、
 予定説については、否定する立場のプロテスタント教派と肯定の立場のプロテスタント教派とがあります)

一方、カトリック教会では、神は(神の全能に関わらず)人間に自由意志を与え、人間は信仰や行いにより、神に倣うべきものとされます。
そして、神は「自分の意志で神を最終的に拒絶する者」以外は全て救う、愛の充満そのものと信頼する向きがあるように思います。
宇宙万物の創造主である神は、人類の歴史の初めから私たちに働きかけ、今も語りかけていると捉えられています。
聖書や教会の伝統が一貫して伝えるのは、神から離れ続ける人間を慈しみと憐れみをもって常に招く神に他なりません。
人格的な存在として「神の似姿」である人間は、「神からの招き」に「はい」と応えることが求めれらているとされています。


=======
 予定説を肯定するしないは、言わば信仰性が違うということだけであり、「異端」という表現は適当ではないように思われます。
 カトリック教会では「誰が救済され誰が救済されないか」を論じるより、
 むしろ全人類の救いを神に祈るべき...とするような捉え方をしているように思います。
 カトリック教会では、プロテスタント諸派(予定説を採用するしないを含め)と比較すると、
 楽観的な救済論をとっているように思われます。

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psa********さん

編集あり2007/10/3115:28:02

予定説を異端と呼ぶのはカトリックに限りません。
プロテスタントの教会の中にもそういう人はいるようです。
予定説というのはあらかじめ誰が救われているかが決められているということです。
人間は罪に死んだ状態で生まれてきます(聖書から引用)から、すべてのものが地獄へ行くのにふさわしく生まれているのです。地獄へ行く事を選ぶのは神ではなく人です。神はご自分の哀れみを示すために決められた人を救いにえらんでいます。
でも救いの条件は私たちの善行によりません。(聖書から引用)だとすれば救いの条件を人が決めることになり神の主権によることにならないからです。
 「どうあがいても地獄へ行く」とおっしゃっていますが、救われたいと望みあがく者はすでに神の救いの業が始まっている人ですから必ず救われるはずです。なぜなら人の魂は罪に死んでいますから、自分で救われたいという望みを持つことさえないからです。

また神と人との仲介者はイエス・キリストお一人であり、カトリックが考えるような教会が仲介をするという考え方は聖書にはないと思います。その考えに基づいてカトリック教会が免罪符を出したりすることに反発して出てきたのがプロテスタントですから。

sec********さん

2007/10/3110:49:05

三位一体を認めているのでプロテスタントといえども同じキリスト教の仲間というのが普通の見解。

fly********さん

2007/10/3011:29:27

異端と考えるかと。

予定説というのは「人の運命は全能の神によって生まれる前に定められている」というものでして、
つまり人間が生きている間にどうあがこうと地獄に行く奴は地獄いき、というわけです。
これは「全能の神は人間の運命をすべて見通しているはずである」という考えから来たもの。

カトリックはそこまで厳密に神の全能性を規定していないので、
(というか、教会のミサを受けることによって罪の許しを受けられるという考えなので、
そこまで神の全能性を強調されると都合が悪い)
人の生きている間の善行、悪行、(ミサを受ける回数、)で天国に行くか地獄に行くか、あるいは煉獄に行くか、
(今はこの考えがあるかは分からんのですが)が決まると考えるかと。

カルヴァンは神と人間の仲介者としての教会の存在を否定しますので、まずここからしてカトリックと対立する要因となるわけです。

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