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弓道家にお聞きします。決して弓道をけなしているのではありません。 先日TVで...

sdc********さん

2014/10/1720:40:27

弓道家にお聞きします。決して弓道をけなしているのではありません。

先日TVで29歳で天皇杯を取った方が、何年後か全て矢を当てたに関わらず、敗退した。
原因は型が悪いとのこと。

弓道は矢の当て合いではないらしい・・・・
その方は型を改善するが、的に当たらなくなってきた。今年も天皇杯敗退した。

ある高齢の方が、暗闇で見えない的を当てていました。型が正しいなら暗闇でも当たるとのこと。結局はあたること?ならば、型は手段でしかない。それとも型ではなく精神性?誰がどのように優劣を評価するのでしょうか?
別のある方は、空間を表現?すると言ってました。こちらのほうが、精神性を表現されているように感じました。

試合は、型と、的を当てること・・・二種類の審査があるとの事。

TVではほとんどの方が、引き絞ったときに手が震えていました。強い弓を引かれているのでしょう。
震えずに、姿勢も微動だにせず、平常心で的を射抜く・・・ロボット?
震えて、多少姿勢が崩れても、平常心で100発100中・・・・人間?
故肥田先生はおもちゃの弓で100発100中・本人曰く、当ててから矢を放つのだからあたって当たり前。

私は完全な門外漢です。素朴な疑問として、
型は手段、目的は当てることでは?
手段を審査する基準は?
型には精神性も出るかと。精神性というならどう評価するのか?
連射、距離バラバラ・・・武道というなら当然出てくるべきことですが・・

弓道組織・権威の維持拡大・・・これが見え隠れしましたが??私の本音です。
故肥田先生が、お前は良い、お前は当たってもダメ・・・こういうなら納得しますが。

専門家の意見をお聞きしたいと思います。

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yum********さん

2014/10/1812:36:21

とても興味深い質問ですね!外の方からの質問はラディカルな問に当たるので楽しいです。
29歳の天皇賜杯受賞者は栃木の増渕先生ですね。斯界では有名な先生です。

まず全日本弓道選手権大会の審査基準は的中の他に、体配(所作全般)が見られます。これを総合して点数制で優勝劣敗を決するのです。

イメージとしてはフィギュアスケートの技術点が的中、芸術点が体配と考えていただければ良いかと思います。
ですから的に全部中て(技術点が満点)ても、体配が評価されなければ(芸術点が落第)総合点で不利となり天皇賜杯は受けることはできません。
これを前提にお読みください。


●型は手段、目的は当てることでは?
おっしゃるとおりです。本来型とは、道の真理(自然の理)に行き着くための手段であったはずです。真理とは弓術においては、的中であると思いますが、弓道では自然とか自由を得ることかなと考えています。
ですが、今の弓引きは型に「理」を見出すのではなく、「形の真似」にばかり終始しているといわれても反駁できませんね。
「正射必中」を「正しければ必ず中たる」とし、正射とは「正しい形」と誤って解釈しています。本来は「自然の理に則った射」が「正射」だと思います。

●手段を審査する基準は?
的中は0か1のデジタルな世界ですが、体配の美しさに基準はありません。個人の主観に頼る世界です。ただ、現代の弓引きの射法のほぼ全ては半世紀前に全日本弓道連盟が発行した「弓道教本」に拠っており、教本がその主観を形成していますから、これに記載されている事項が基準といえるでしょう。個人的には教本を聖典のように扱うのは一種の偶像崇拝だと思います。行き過ぎは禁物ですね。

●型には精神性も出るかと。精神性というならどう評価するのか?
確かに、人の心の中はのぞけません。しかし、学生と熟達した高手の射では「動きの質」が違うのも確かです。動きに”甘み”があるというか、惹き込まれるような射をする人がいます。もしその人が敵だったら、私は自由に殺されてしまいますから
武術的にも精神性は不合理ではないのかもしれません。

●連射、距離バラバラ・・・武道というなら当然出てくるべきことですが
現在の弓道の距離は15間です。弓は投射兵器です。これは敵味方槍兵の攻守範囲12間にさらに槍1本分の間合いを足したのを由来とするそうです。

矢の基本単位は2本です。これは矢羽は表裏あり、これを半分に割くと一枚の矢羽になります。時計回りに回転するのが甲矢、逆が乙矢と呼ばれます。
おそらく士道ということで一射必中が尊ばれたから、連射は重要視されなかったのでしょう。

なお、江戸時代に京都の三十三間堂で121.7mの距離を24時間で1万本以上引く通し矢という競技が流行しました。現代人には真似できないすさまじい体力が要求されます。

●弓道組織・権威の維持拡大・・・これが見え隠れしましたが??私の本音です
多分にあるでしょう。実力が無い者が権威付けに精神性や形の美しさを尊ぶのはどの組織にもあると思います。

◯「当ててから矢を放つのだからあたって当たり前」
ある程度修練を積んだ人ならわかる感覚だと思います。既に的中が決定づけられた状態に身体を投げ込むのが理想です。私は学生時代「中たるまで離すな」と教わりました。剣でも同じような教えがあったと思います。

  • 質問者

    sdc********さん

    2014/10/1819:59:00

    すばらしいですね。矛盾を感じながらも真摯に稽古されているという印象を持ちました。私なんかに反論の余地はありません。
    (私は矛盾が嫌でスピンアウトしました)

    偶像崇拝、動きの質、士道の2本、確かに権威付けはどの世界にも。
    体を投げ込む・・・私は観念でしか捉えていませんでした。すばらしい表現です。空手でも当てて当てる・・・研究していますがイメージ・気(持)が優先し体が抜けていました。
    型はあるだろうな、とは思っていたのですが、動きの質もあったとは思いませんでした。さすが日本武道ですね。

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質問した人からのコメント

2014/10/24 09:01:38

ありがとうございました。

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cro********さん

2014/10/2011:43:12

yumincyu2000さんの回答がとても素晴らしいので、蛇足になってしまいそうですが、この興味深い質疑応答にぜひまぜていただきたく、長文失礼します。

型は手段、目的は当てることでは?
おっしゃるとおりです。
良く「中ればいいってもんじゃない」と聞きますが、そもそも「中らなかったら意味がない」のです。
弓道の型は、長い年月をかけて先人たちが工夫し、発見しては改善し、発展しながら現代に受け継がれているものです。身体の動きの美しさと合理性を追求した結果。
しかし、型の一つ一つの目的、つまり「合理的な力の運用」に思い至らなければ、ただのきれいな抜け殻です。綺麗かもしれませんが、そこに実はありませんし感動もありません。「形の真似」にすぎませんからね。
型と、その型である意味(力の運用)の両方が充実してこそ「自然の理に則った射」が可能となるのだと思います。

手段を審査する基準は?
弓道の最高目標に「真善美」とあります。
それらは確かに個人の主観で左右されます。しかし、大多数の人が美しいと思うものは共通していると思いませんか?雄大な景色や自然の移り変わり、獲物を追うチーターの躍動的で無駄のない走り、美しいと感じませんか?美しい、目に快いと感じるもの。小さなものならば確かに人それぞれでしょう。
でも、圧倒的な美しさ、強い印象、感動を与えるものとなれば、より多くの人々に共通してくるのではないでしょうか?
質問の意図からずれてしまいましたね・・・要は、いかに審査員の心を打つ射であったか、が基準なのではないでしょうか?審査員とて、弓引きとしてその人生の大半を割いてこられた方々です。それぞれ目指してきたもの、理想とするものがあるでしょう。いかにそこに迫ることができたか、じゃないでしょうか。

型には精神性も出るかと。精神性というならどう評価するのか?
これも上の内容とかぶってしまいますが、「理想」なのだと思います。
美しいだけでない、実のある型、自分の理想に向かって真摯に努力している姿。
一見同じ型でも、ハッと惹きつけられる射、危うさも騒がしさも感じられず、ただ自然とそこに在る姿。
時折、そんな射を見ることがあります。このような射を私の師は、「三貫の射」と呼んでいます。「的を射ぬく射・見る人の心を射ぬく射・自分の心を射ぬく射」のことです。
確かに精神性の上下を付けるのは難しいことです。
しかし、確実にこのような射が存在することを上段者であれば必ず思い知っているはずです。ですから、どれほどに審査員の心を射ぬいたか、いかに理想に迫れたか。そこは審査員の主観に任せるしかないのでしょう。

連射、距離バラバラ・・・
連射や距離を競うのならば「弓術」になるかと。

弓道組織・権威の維持拡大
これはまぁ仕方のないことかと。
どのような団体・組織にも存在するのではないでしょうか?

「型が正しいなら暗闇でも当たる」「当ててから矢を放つ」・・・
これは、ある程度の域に達した方ならば、感覚としてわかっているものだと思います。
型が正しい、というのは、その型がその型である意味を解釈し、自分のものとし、力の運用の妙味としての型が正しく作用していること、と考えています。
私はまだまだ未熟で、満足のいく射ができたためしはありませんが、「この感覚!」というのは何度か体験しています。そういう時は、離れる前から中ることは疑問の余地なく決定しています。とくに「これは中る」などとも思いませんが、外れることなど心の中にも頭の中にも存在しない状況なのです。
なんの疑念も妄執も感じず、ただ、ひたすらに心地よいです。

審査員の先生方とて、まだまだ理想を追い続けているはずです。
一度、私の師に聞いたことがありました。今までに満足のいく射を経験したことはどれくらいあるのか、と。すると、「一度もない」と即答されました。
師も、昇段審査の審査員なども務め、私からすれば信じられない高みにいます。それでも時々「あともう少しで何かつかめそうなんだ」とつぶやいています。
約半世紀かけてやっとつかめそうな何か。私には想像もつきませんが、それを次世代に伝えることで、自分の代では叶わないかもしれない弓道の究極の姿を追い求め続けていく。弓道界の未来にまで思いを馳せる。
その姿は間違いなく私にとっての「真善美」ですし、聖典とまでは思いませんが、約半世紀にわたって書き直されることのなかった(おそらく書き直すこともできなかった)教本にも、同じような思いを感じています。

字数足りなそうなので追加しますね↓

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jik********さん

2014/10/1801:22:25

矢を的に中てることは必須です。そして、それを成し得る型=射型を体現することも的中以外の点数として重要です。29歳で天皇杯を取った方は、射を拝見していないので想像で書くのですが、日常生活・仕事・その他の要因で射型を維持できなくなってしまったか、維持しているつもりが知らぬ間に崩れていたのではないでしょうか?また、射が崩れたりした場合、師範など先生にあたる方や知人が教えてくれる機会があると思うのですが、天皇杯覇者に対して声をかけ辛くなったか、教えを受けた当人が「天皇杯覇者の私がそんなことになっている筈はない」と聞きいれなかった可能性もあります。さらにいうと、教えを頂いて素直に聞いていても思うように射型が直せない場合もあります。
疑問として挙げられている手段と目的ですが、目的は三位一体の体現です。三位とはそれぞれ「身体の安定」「心気の安定」「弓技の安定」をいいます。これを体現する手段が射法八節(技)であり体配(身のこなし)でもあります。そして結果として矢が的に中っている。中てたのではなく中っている事が必要です。手段がいつわりのない状態(真なる状態)になるよう修行することが、善性を求める事となり、修行の結果として入場から退場に至るまで美しく見えるようになります。審査員は弓道の最高目標である「真善美」の状態を評価します。

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