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日本刀に詳しい方に質問です。 司馬遼太郎さんの幕末ものなんかで、よく「朱鞘」...

pst********さん

2015/1/923:06:24

日本刀に詳しい方に質問です。
司馬遼太郎さんの幕末ものなんかで、よく「朱鞘」というのが
でてきますが、文脈から推測すると、にわか武士がもつ安物
の刀みたいな感じがするのですが正しいでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

e34********さん

2015/1/1013:37:43

当時から現代においても朱漆は黒の漆よりも高価です。

室町時代以前も以後もですが、朱色は猩血(中国の幻想の吉獣)とかけて縁起のいい物とされておりまたその色の華やかさから多くの者達に親しまれてきました。
なので神仏への奉納物には結構、朱色の物が多いいです。

安土桃山時代にはバサラ者(傾奇者)が世を斜に構えて派手な装束や拵えを愛用しましたその時に流行ったのは朱鞘の打刀拵もあります。

江戸時代、前期、幕府の方針に反発した若手の者たち旗本奴や町奴(傾奇者)などが桃山時代のバサラ者と同じような事をして幕府の手で討たれてからそのような者は鳴りを潜めました。が、時代も降り、幕府の権威や力が衰退し始めると武士達の差料に贅を凝らし始めました。
朱漆塗の鞘に蒔絵などを施したりもします。
でも、そのような拵えでは登城はできません。
献上拵(殿中拵)という黒鞘に黒柄紐、黒鍔という拵えでないと、遺憾ことになってしまいます。
ある意味、この献上拵が江戸時代の徳川寄りの武士の象徴ではないでしょうか。

なので長州などの勤王武士や勤王博徒などは徳川幕府の決まり事の一つ献上拵に当てつけて朱鞘を多く使用している者が多かったのではないでしょうか。
それに服装は標準だったようですが、大額・大月代なども行い、ある意味反政府思想、プチバサラ者って感じだったのでしょうかね。

また皆朱の槍ですが、首級を挙げる数と言うよりも、どれほど戦場で手柄首を討つかとか、どれだけ多く相手武将の部隊に痛手を与えて勝利に貢献したとかの総合的な武勇で決めていたようです。

残念なことに私のご先祖様は感状は貰っても、皆朱槍の許しはもらえなかったようです。(苦笑

質問した人からのコメント

2015/1/11 01:54:38

くわしくありがとうございました!!勉強になりました。

ベストアンサー以外の回答

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2015/1/1000:14:05

安物というわけではありません。登城の際の刀は長さ二尺三寸五分の定寸。拵えは黒、鞘も黒呂というのが決まりで、これに反発するように勤王派が朱色の鞘に二尺五寸以上の長刀を佩びるようになりました。総髪にしろ長刀にしろ勤王派発信で幕末に流行しました。

2015/1/923:39:02

詳しくないのに、ごめんなさい。
本来(戦国)では、一定数のクビを挙げないと持ってはいけない代物だと思います。
形式だけが、幕末に受け継がれたのかな・・・と。

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