顕正会の主張する「国立戒壇」は文証として正しいのでしょうか 「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に 本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を

顕正会の主張する「国立戒壇」は文証として正しいのでしょうか 「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に 本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を 末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、 霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」 顕正会は三大秘法禀承事という御文により 「国立戒壇」の実現を主張しています。 たしかに国立戒壇という文言は田中智学による造語ですが 日蓮大聖人は顕正会の主張する「戒壇」を求めていたのでしょうか もし違うのであれば、文証を用いて説明をお願いします

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「三大秘法禀承事」 「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して〓給うべき戒壇なり、此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の〓棘となるにも過ぎたるなるべし、夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇を〓ましむべきや、此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ」 日蓮大聖人様は「事の戒法立ちて後」と説かれておられ、日蓮大聖人様御在世当時に戒壇があることが分かります。 そもそも日蓮大聖人様は三大秘法を兼ね備えた御本尊様を御図顕なされております。 戒壇が無いなどと申す輩は、御本尊様を二大秘法でしかないと思い、日蓮大聖人様が御本尊様を未完成のままで御入滅なされたと言っているわけで、日蓮大聖人様を貶す謗法の輩です。

ありがとうございます。切り文よりもある程度の文章を見たほうが分かりやすくていいですね 延暦寺は嵯峨天皇の勅許によって戒壇設立を認められた経緯があり、日蓮大聖人はその戒壇を「理の戒壇」と捉え、日蓮大聖人は正法における「事の戒壇」を望まれた、というのがtukimiya0530さんご紹介の御書からうかがえます。広辞苑を繙くとそもそも「戒壇」とは「出家僧が受戒を受ける場」としての機能をもつものを指すそうですが、いつの間にか日蓮正宗は「大御本尊様を御安置する容器・建物」という捉え方をされていて、顕正会や創価学会もその捉え方を踏襲しているように思います。ですが、日蓮大聖人の望まれている「戒壇」とは、国から認められた「出家僧が受戒を受ける場」ではないかと考えます。であるならば、もう封建時代ではない今の現代においてそのようなシステムは不可能ではないかと思われますが、どうでしょう

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました

お礼日時:2015/1/18 23:34

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日蓮宗僧侶です。 「南条兵衛七郎殿御返事」に、「彼の月氏の霊鷹山は本朝此の身延の嶺也」 顕正会の主張する『三大秘法禀承事』は富士門流の捏造した偽書です。 戒檀の場は身延山を於て、他にはありません。 合掌 南無妙法蓮華経

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元顕正会員で、日蓮正宗信徒です。 「国立戒壇」の4文字は御書にはないので、文証として正しくはありません。 そもそも「国立戒壇」とは何なのかと言うと、それはただ単に、一期弘法付嘱書や三大秘法抄で示された「御遺命の戒壇」を、わかりやすく表そうとして用いられた、『通称』『別称』の一つです。 また自分の立場から見れば、「国立戒壇」は顕正会の『洗脳ワード』ですね。 顕正会の折伏理論書では、御遺命の戒壇のことを「本門戒壇」とも呼んでおります。 それで、文証として正しい呼び方はどれかと言いますと、一期弘法付嘱書には「本門寺の戒壇」とありますから、正しい呼び方は、「本門寺の戒壇」となります。 (質問への回答は終わりましたが) 要するに、「国立戒壇」の名称を日蓮正宗が使用中止にしようと、日蓮正宗は少しも御遺命違背ではないということですね。 御遺命を放棄したのではなく、名称を使用中止にしたのです。 本来ならば、広宣流布の象徴として、また広宣流布後の全人類の懺悔滅罪の成仏のための場所として立てられるべき御遺命の戒壇なのですから、広宣流布以前に、「このようにして立つ」「この名称でなければいけない」と決定しておく必要もなかったわけですが… 国柱会で国立戒壇の名称が使われだし、日蓮正宗でも使う方が現れ、正本堂についての意義づけのために戒壇論がさかんに論議されるようになったことから、 なんだか、「御遺命の戒壇とはどのように立つのか、御遺命の戒壇の名称は何なのかをはっきりさせなければいけない」 という空気ができてきたのだと思います。

Wikiが全て正しいわけではないですが「戒壇」の項で 「唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられた。この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。その結果仏教界の規律は守られるようになった。鑑真は754年東大寺に戒壇を築き、4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。その後、東大寺に戒壇院を建立し筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇) これ以降僧になるためにはいずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国が僧を管理することになった。822年、最澄の死後、延暦寺に戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。大乗戒壇と呼ばれることもある」 日蓮大聖人御遺命の戒壇は「広宣流布の象徴として、また広宣流布後の全人類の懺悔滅罪の成仏のための場所として立てられるべき戒壇」とは御書のどこに書かれているのか。のちの人の後付けではないのでしょうか