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江戸時代の甲州街道が現在の日野橋の所で直進(奥多摩街道)しないで、いったん斜め(...

hmm********さん

2015/2/2505:46:16

江戸時代の甲州街道が現在の日野橋の所で直進(奥多摩街道)しないで、いったん斜め(新奥多摩街道)に入ってたのは何故ですか?

補足間違いました。新奥多摩街道方面に行かないで奥多摩街道方面に行ったのは何故ですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

fin********さん

2015/2/2602:52:07

【補足見ました】
当時は多摩川の流路が現在より北寄りだったからです。
新奥多摩街道の位置を通ると、水の中を進むことになります。

甲州街道は徳川幕府の手によって五街道のひとつとして整備されました。道標や一里塚、村絵図などによって位置は特定できています。



勘違いしていますね。日野橋のところは新奥多摩街道へ行かずに奥多摩街道です。小堺商店のところで左へ別れる。

質問した人からのコメント

2015/3/3 15:21:10

ありがとうございました!

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ベストアンサー以外の回答

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kum********さん

2015/2/2521:28:47

江戸から甲州街道を通り、甲府緑町一丁目の伊勢屋栄八など幕絵世話人衆に頼まれて、歌川広重が甲府に向かったのは天保十二年四月二日。
この甲府までの広重の日記(甲州日記)には、「府中宿で府中大社の図を画帳に収め、府中宿から玉川(現多摩川)の渡しで日野の原に入り、この渡しの場所に芭蕉の碑があった。「蝶の飛ぶばかり野中の日陰かな」とある。八王子宿の八日町に今宵の宿を探していると、徳利の看板を出した旅籠の亀屋があった。酒の好きな広重は、その徳利に魅かれて泊まりを頼んだが断られ、先隣にある山上重郎左衛門の宿に泊まった。ここの主人は武田の残党で、これから行く甲州の話をしてくれた。・・・」
江戸時代の甲州街道が奥多摩街道方面に行った? 江戸時代の甲州街道だと何で分かったのだろう? 江戸時代の甲州街道は殆ど整備されては居ない筈で、玉川(多摩川)の渡しのあった場所すら、既に分からなくなっているはずです。

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