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中国歴代王朝開祖への評価について。

hur********さん

2015/4/1715:46:36

中国歴代王朝開祖への評価について。

各正史の巻首に来るような人物に関する質問です。

前四史は大学図書館で読めますし、そもそも『三国志』武帝紀にある陳寿の曹操への評は覚えています。
『晋書』宣帝紀では司馬懿に対して、李世民が直々に結構ボロクソに書いてるのを読んだことがあります。

しかしこれ以降の正史に関しては、本はおろかネットを頼っても和訳を見つけられません。
『晋書』以降の正史にも、伝の最後に評のようなものは書かれているのでしょうか?
書かれてるとしたら、その中で有名なものや面白いものがありましたら、和訳で紹介していただけないでしょうか。

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bap********さん

2015/4/1801:38:32

「評曰」とか「史臣曰」とかでありますよ。

厳密な翻訳じゃありませんし、間違いだらけなのは承知していますが、一応、宇文泰と高歓を対比として載せますね。随分前に書いたものなので、稚拙ですけどご容赦ください。まずは『周書』の文帝紀下から。

史臣は言う。水歴(北魏は水徳の王朝らしいです)は終わろうとし、群凶は朝廷に逆らい、あるいはその威と権力によって主君を震えさせ、あるいはその犯意は天にまで漲った。皆、大宝は力をもって征すべきだ、神物は自分から得ようとするべきだと言って、九鼎を窺わないことはなく、両宮を睥睨し、夷を誅して(権力を?)継ごうと、その足を(都の方向に?)かえさずに亡ぶ。これは、巨君(王莽の字)の簒奪が建武(光武帝の年号)の成功に終わり、仲頴(董卓)の凶悪残忍が「当塗の業」(後漢末の讖緯の言葉)を招いたことで知れる。天命には底があり、容易にあふれるのだ。

太祖の田は少ししかなく、その衆も一旅に満たなかったが、戦いに際しては馬を馳せて部隊の間を駆けた。まだ一介の武将の時には、その天運に応じて義勇を集めて同盟を糾合して一挙にその仇(同郷で上官だった賀抜岳の仇)をうち、再び帝室を正した。そして内には帷幄にはかり、外には偉材をたのみ、誠実に人を遇して、ひろく訓戒をもって事に臨んだ。高氏の兵はその精強であることを恃みとしてたびたび近畿に侵入して、西魏を呑まんばかりだった。秀でた策略と電撃的な決断で風のようにその場にはせ参じて、弘農では「城濮の勲」(春秋時代の戦い。晋文公が楚成王に打ち勝った)を建て、沙苑では「昆陽の捷」(新軍と緑林軍の戦い。劣勢の劉秀側が勝利した)の再現となった。

権威を得て覇者の道を定め、弱をもって強とした。「紹元宗之衰緒,創隆周之景命(うまく訳せません)」。南に江漢を清め、西に巴蜀を奉じ、北には砂漠を控えさせて東は伊瀍の流れに拠った。すなわち、落ち目となっていた魏晋の風をおしのけて、いにしえの法度をさだめ、六官のすでにすたれていた制度を修復して、一代の模範となる制度をつくりあげた。徳と刑罰とを併用して、億兆の衆望を帰属せしめ、君臣の礼を取る人物への期待を集めた。太祖の功業はこのようであって、人臣として終わった。なんと盛んなことか。その雄略は時代を冠絶とまではいかなかったが、その英姿は不世のものであり、天からそのたぐいまれな才を授けられ、武にも文にも縦横に才を発揮した者とは、このような人である。昔、漢献帝の時代の戦乱は曹公がその業を助け、晋の安帝のころには、宋武帝(劉裕)がそれを匡す勲功を建てた。
その(太祖の?)徳をかんがみて功を論じると、それは多くてなお余りある。

危うさの中にあった宮廷にて勝ちを制し、その都城で幼子を殺戮した。柔然は帰属して、異民族を誅した。権道に出たとはいえ、用いるに徳教に乗じた。周の治世が長くなかったのは、あるいはこのためだろうか。

・・・最後、よくわかりません。一貫せず、中途半端ということでしょうか。

次に、ライバルの高歓です。『北斉書』の神武紀下です。

神武の性格は深密傲岸で、一日中厳然としていて、人々は彼のことを測りかねた。権力を使う際の変幻自在ぶりは神業だった。軍国の大戦略に至っては、一人で考えてそれを実行に移したので、文武の将吏は少ししかその謀略に組みすることができなかった。軍衆を統御し、法令は厳しく、敵に臨んでは勝ちを制し、その策は縦横無尽だった。情報を判断する時にはあやまちを犯さなかった。人を知って士を好み、その人の古い功績もすべてないがしろにはしなかった。さまざまなことに気を配り、常に慇懃でその論の核を指摘し、なびくことはなかった。人を選んで任務を授け、才能があれば厩番であっても抜擢し、名声だけで実力のない者はほとんど任用しなかった。諸将が出陣すると、その戦略を授けて必ず勝ち、指図から外れれば、その多くは敗亡につながった。質素をたっとび、刀剣や馬具には金や宝石の飾りはなかった。酒癖がわるかったが、大任があるときには三杯以上飲むことはなかった。家にいても仕事中のようにしていた。まごころと寛容をもって士を愛した。
はじめ范陽の盧景裕は経書に明るいことを称され、魯郡の韓毅は工書に明るかったが、皆謀逆で捕えられたものの、館にとどめ置いて諸子の教育にあてた。
文武の士が忠節を尽くしたのは、彼らがとらえられても相手に寝返らない士が多かったことに表れている。遠くからでも心を寄せてきたのは、皆その力を思ったからである。南は梁国に威を見せつけ、北は蠕蠕が懐き、吐谷渾や阿至羅が招きに応じてその力を(東魏が)得たのは、(神武)の機略が遠くまで及んだからである。


高歓はベタボメで一貫しています。訳しやすさも高歓のほうが簡単でした。
『北斉書』の神武帝紀は「補」帝紀だからか評の部分がなく、末尾を紹介しました。

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質問した人からのコメント

2015/4/23 19:36:43

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