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大戦時の航空基地に関しての質問です。 太平洋戦争時、南方では零式戦闘機など...

ibi********さん

2015/5/1622:39:24

大戦時の航空基地に関しての質問です。

太平洋戦争時、南方では零式戦闘機などが活躍したことは周知のことですが、これらを運用した航空基地の規模はどのようなものだったのでしょうか?

ラバウル航空隊はラバウル方面に展開したいくつもの航空隊、基地の総称だと聞きました。それでは一つの基地でどの程度の航空戦力を保有していたのでしょうか?戦時に作られた基地ですので、滑走路や施設なども簡素なもので、あまり大規模な基地を運用することは難しい様に思えるのですが、どうだったのでしょうか?
航空母艦では艦によっては百機ちかい多種な航空機を運用できますが、陸上ではどうだったのでしょうか?
大戦時のそういった航空基地について分かる資料、書籍などご存じの方はそれも教えていただければ幸いです。

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小次郎さん

2015/5/1809:07:59

>これらを運用した航空基地の規模はどのようなものだったのでしょうか? >

正確には不明です。規模は秘匿されつつ海軍は終戦前に資料を焼却してしまい、残る陸軍の資料でも航空基地の規模はあっても航空隊名と所在地は伏せられ特定できなくしてあります。

大型の飛行場では60機以上、小型の飛行場でも30機から40機の運用能力があり、ラバウルの飛行場と滑走路は逐次増設され陸軍航空隊も含めると五ヶ所に及び、一飛行場一本の滑走路として単純計算で最大三百機程度、滑走路が複数二本、三本あれば全体で千機の運用も可能かと推察します。

ラバウルが始動した当初、三航空戦隊程度の兵力がありました。
ラバウル航空隊(第二五航空戰隊)

横浜航空隊/水上戰鬪機12機、飛行艇16機
第四航空隊/陸上攻撃機(中攻)48機
台南航空隊/戦闘機60機、偵察機8機(第四航空隊の戰鬪機隊も併合)

この兵力で南東方面の航空作戰を一手に引き受けることになります。
後には空母艦載機が加わり、陸軍航空部隊も進出する事になります。

ラバウル地区には主要な飛行場が2つありラクナイ飛行場、主に戦闘機隊が使用。もうひとつはラバウル港の西側の山の上に置かれたブナカナウ飛行場、主に中攻が使用しました。

滑走路の幅は幅六十メートル、距離は戦闘機ですと八百メートル、爆撃機で千二百メートルが整備されていたでしょう。

滑走路は必ずしも舗装される必要はありませんが、離着陸する機体の負担を軽減させます。しかしラバウルは火山灰の上にあるため、地面が軟弱で、さらに離着陸時には土煙が激しく立ち上りました。

ラバウルでは滑走路に鉄板を敷き詰め、又、爆弾ので損傷をうければ、その部分だけを取り替えると言うアイディアが採用されたが、爆弾で鉄板が砕け人員を殺傷したところから短期間で終了しました。

>あまり大規模な基地を運用することは難しい様に思えるのですが、どうだったのでしょうか?>

ラバウルは戦局から一大基地、要塞化され戦力は増強されました。

ラバウル周辺の飛行場の整備は進み、南飛行場(トベラ飛行場)、北飛行場(ケラバット飛行場)と拡張され、とくに南飛行場には昭和18年以降、南東方面へ進出を開始した陸軍航空隊が使用することになります。

陸軍航空隊は1943年春の三式戦キ61大編隊、トラックからの移動中多数機損失の大事故をおこしています。

洋上飛行に慣れていない陸軍航空隊は先導機と合流に失敗したり、エンジントラブルなどでした。

ガダルカナルへ2000kmの長距離飛行の進攻作戦を強いられ、貴重な熟練搭乗員と機体を多数失い、かって精鋭ラバウル航空隊の面影はなくなりました。

ラバウルは孤立し米軍は尻目に蛙飛び作戦にて自滅を画策しました。

1944年になると復元のゼロ戦で散発攻撃や偵察行動、復元97式艦上攻撃機2機でアドミラルティ泊地夜間雷撃。復元100式司令部偵察機によりトラック島へキニーネなど医薬品を受領する為の強行飛行など。

ちなみ復元された機体は破壊された複数の機体の寄せ集めで海軍の優秀な整備兵の賜物でした。 日本海軍は前線でも修理可能の整備部隊が随伴したが、陸軍は整備は後方基地に分担させ能力がなく、陸軍のラバウル復元100式司令部偵察機は海軍整備兵が復元しています。



■飛行場建建設と設設営隊

日米は航空戦で激突しましたが、実は基地設営能力が勝敗を決したのです。

日本海軍は高空偵察により飛行場適地を定めました。 輸送力や土木機械といった装備の貧弱から、平地である事、そして土木工事に欠かせない砂や砂利が現地で調達可能か判断しました。

基地設営隊の当初の編成は受刑者らと朝鮮人労働者、軍属の土木技師、そして警備の兵士達でガダルカナルでもそうでした。

運搬のトラックは優先的に割り当てられはしたが土木機械は一部だけで多くはモッコ、ツルハシといった人力で作業をこなさねばならず過酷な労働でした。

飛行場適地の誤判断により、とうとう未完に終わった飛行場もあったそうで、そこは実は水はけ悪い湿地帯だったからだそうです。

一急設滑走路を三百人で10日の完成をメドとしていたが、米軍が遺棄したブルドーザーに捕虜により運転させると一日で地ならししてしまい。ブル一台は千人の労働力にむいたそうです。

米国は工兵部隊に海軍所属のシービーズがあって戦闘もこなします。
ガダルカナルで飛行場を支え戦闘も粘り強く戦ったので日本軍を敗退させました。

また優秀な土木機械を装備し飛行場建設に関わるセンメントや砂利、砂、など資材一切もふんだんに輸送船で運ばれていたので、3日あれば日本軍と比較し立派な飛行場が建設され飛行機が即座に進出してきました。

>これらを運用した航空基地の規模はどのようなものだったのでしょうか? >...

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nak********さん

2015/5/1916:29:06

〇台南航空隊の航空機定数は約50機でした。
☆1個飛行隊に陸上偵察機隊が付属した2個飛行隊で編成されていました。
◇ラバウルには台南航空隊の他に陸上攻撃機主体の航空隊が1個ありましたが滑走路は別でした。(陸上攻撃機の飛行隊と護衛の戦闘機の飛行隊が配属された航空隊です。)

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he0********さん

2015/5/1712:24:14

ラバウルなどは滑走路に鉄板が敷いてありましたが、他は、通称「牧場」といってペンペン草などが生えていた単なる大きな土地でしかありませんでした。雨が降ると「牧場」はグチャグチャになり、使えませんでした。草を刈り、航空機の上に乗せる。航空機の偽装の為に、毎日草を刈るのが一番大変だったそうです。
出典は、「昭和20年」全13巻 鳥居民著 草思社です。

dik********さん

2015/5/1707:51:26

光人社NF文庫にそのあたりの様子がわかるものがいくつもありますよ。

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