クリスチャンの方に、質問です。 私も、クリスチャンです。 私たちは、イエス・キリストに対する信仰によって、救われています。 では、旧約聖書に登場するアブラハムにしても、モーセ、ダビ

クリスチャンの方に、質問です。 私も、クリスチャンです。 私たちは、イエス・キリストに対する信仰によって、救われています。 では、旧約聖書に登場するアブラハムにしても、モーセ、ダビ デ、イザヤ、エリヤなどは、もちろん、すくわれているはずですが、イエス・キリスト誕生以前の人たちです。 旧約聖書の人々は、なにを根拠に、救われていると、言えるのでしょうか? 教えて下さい。よろしくお願いします。

補足

できれば、根拠となる聖書箇所なども、教えていただければ、助かるのですが。

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キリスト教では、救いは「イエス・キリストに対する信仰によって」と言うよりも、「父と子と聖霊の神に対する信仰によって」です。そしてこの三一の神は旧約時代から人々を導いておられます。だからアブラハムやモーセその他の人々も信仰において救われているのです。その根拠は信仰そのものです。信仰があるということが救いを確証するのです。ヘブル人への手紙11章1節で信仰は「見えないものの証明」とか「疑いなき確信」といわれています。信仰は神の賜物であり、単なる人間の行為ではありません。 旧約時代は啓示がまだ部分的でしたので(啓示の漸進性)、御子の存在は人間にとって明らかではありませんでしたが、受肉して人となられたことにより明らかにされたのです。 「多くの方法、さまざまなやり方で、神は、昔、預言者たちによって父祖たちに語った後、これらの日々の終わりにあたっては、子において私たちに語った。」(ヘブル人への手紙1:1~2) ですから、キリスト教においては新約が旧約よりも重視されるので、旧約時代の人々は救われたといっても、その実現は終末までお預け状態です。その点は新約時代の人々も同じではないか、と言われるかもしれませんが、新約時代では御子イエスの贖罪を信じる者には天の祖国に帰るという救いの約束が与えられています。これが福音です。旧約にはこれが無いのです。 「信仰をもって、この人たちは皆死んだ。約束は受けず、遠くからそれらを見て、挨拶を送り、また自分たちが地上では外国人、仮住まいの者であることを信仰告白したのである。・・・しかし実際には彼らはよりよい、つまり天上(の祖国)を切望している。それゆえ神は彼らを、彼らの神と呼ばれることを恥としない。彼らのために都を準備したのだから。」(同書11:13~16) 新約時代の人々は受けることができて旧約時代の人々は受けることができなかったものとは、要するに罪の赦しの福音なのです。旧約時代の信仰は律法主義だったからです。 福音主義においてはキリスト中心なので、おっしゃる「イエス・キリストに対する信仰」が強調されます。プロテスタント教会の伝統は十字架の神学であり、まさにキリスト中心主義です。しかしこれは新約聖書、特にパウロの手紙を表面的に読んだ結果です。 ルターの福音再発見テキストの一つともいわれる3章22節は、「イエス・キリストへの信仰を通しての、そして信じる全ての者たちへの神の義」と言われています。しかし、このようにパウロにおいてキリスト中心の信仰が目立つのは、その前提である(父なる)神への信仰が当然のことであるがゆえに、いちいち書かれていないからです。それでも「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝」(7:25)とか「唯一の知恵ある神に、イエス・キリストを通して栄光がとこしえにあるように」(16:27)といった表現に、パウロが元、熱心なユダヤ教徒としていかに神を第一とする信仰を持っていたかが示されます。ここで「~を通して」(あるいは「~によって」)と訳されている「ディア」という前置詞が、パウロにおけるキリストの位置づけを如実に表わしています。すなわちパウロ神学においてイエス・キリストは、神と人間との媒体(=仲介者)であり、いわば本尊は父なる神なのです。この点は日本の新約聖書学の権威でもある八木誠一先生の著書『キリスト教は信じうるか』や『キリストとイエス』(共に講談社現代新書)などに明記されています。パウロにおいては、あくまでも神を第一とする信仰を前提としてこそのキリスト中心主義です。

(追加) 新約聖書においては「父」を「神」と言い表している場合が多いです。その点、「子」を「神」と言い表す場合は全く無いことは無いですが稀です。それは「父」を「神」と言い表す場合と、「子」を「神」と言い表す場合とで、その意味が異なるからです。 前者は実体的、後者は象徴的・・・とでも言いましょうか、とにかく意味が違うのです。当然のことながら、「父」を「神」と言う場合と、「父と子と聖霊」という三一の神と言う場合の「神」とは区別されます。教義では三一の神ですが、聖書的には「父(神)と子(キリスト)と聖霊」の三一関係です。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

分かりやすく、ご説明いただきありがとうございました。他の皆さんも、多くのご説明をありがとうございます。 ベストアンサーを、選ばせていただきますが、一応のものです。 また、聖書から多くの事を、語っていただいた回答者の皆さん、ありがとうございました。BAを、選ぶ期限締め切りが、近づいていますので、余裕がありませんので、選ばせていただきます。この選択も、もちろん完璧では無いってことで。

お礼日時:2015/5/24 21:28

その他の回答(5件)

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救い(あるいは義)には二つの要素(二つの面)があります。 それは、信仰による義と行ないによる義です。 新約聖書において、ガラテヤ書では信仰による義が述べられています。ヤコブ書では行ないによる義が述べられています。また、パウロはその手紙の中で愛の実行(=行ない)を強く勧めています。 旧約聖書では、アブラハム等の信仰の義が述べられており、また、律法を守るように(=行ない)と勧められています。 信仰による義と行ないによる義は両方大切で、 どちらかだけでよいというわけではありません。 あるいは、どちらかに偏るのはよくありません。 ユダヤ教は、律法(行ない)に偏りすぎでした。そこでパウロは、ガラテヤ書で信仰を強調しました。ガラテヤ書は信仰を強調しただけで終わったのではありません。パウロはガラテヤ書の5章で、その霊の実、愛、喜び、辛抱強さ、親切、善良…・を勧めました。 また、ヤコブ書が書かれた当時信仰に偏りすぎる人たちがいました。そこでヤコブは行ないを強調しました。 このような点から言って、質問者さんが挙げられた旧約の人たちは、 信仰によって義とされていた(救われていた)と言えるし、 また行ないによっても義とされていた(救われていた)と言えるかと思います。 例えば、アブラハムは、神の言葉に忠実に従い、その子イサクを祭壇にささげました。その行ないによって義とされました(ヤコブ書にあるように)。

ご回答を、ありがとうございます。 「行いによる義」ですか? 私は、やはり、「信仰による義」の方が、大切なような気がしますが…。 キリスト誕生以前の人々が、「行いによって義とされた」のであれば、イエスの誕生は、必要なかったようにも、思いますが…。

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旧約聖書には、父祖たちが眠りにつき「陰府(シェオル)へ下る」という表現はあっても、天に召されるとか死後に救われるといった表現はありません。 ですから、初期のクリスチャンはこう考えました。キリスト以前の人々というのは、永遠の滅び(ゲヘナ)には定められないにしても、原罪を抱えたまま死んだがゆえに「陰府へ下った」のだと。 アブラハムとて例外ではありません。だから『神曲』の主人公ダンテは、旧約聖書の父祖たちが「地獄の周辺」、すなわち辺獄(リンボ)にいたと告げられます。 しかし、ダンテはこうも教えられます。イエスが十字架につけられて死に、葬られ、「陰府に下り」、三日目に死人のうちより甦ったとき、陰府にいた父祖たちも連れ出されたのだと。 こういう考え方は遅くとも 2 世紀にはあったようです。『ピラト行伝』は、イエスが三日で陰府を制圧し、人々の魂を解放して凱旋するお話です。 --- で……、breath_of_blessing さんの引用している新改訳のヘブル 11:40 は誤訳ですね。そこは「わたしたち無しでは、彼らが完全な者とされないように」です。 裏を返せば、キリスト以前の父祖たちは「わたしたち」によって完全な者となる。なぜなら、「わたしたち」こそが彼らの信仰が証した「約束」だからです。現在の「わたしたち」が父祖たちと一つになるとは、そういうことですね。 その「わたしたち」を完成に導くのはキリストです。 --- ところで、ローマ 5 章によれば、一人の人によって罪がこの世に入り、すべての人の中に死が入り込みました。アダムと同じようには罪を犯さなかった人にさえ、死は入り込みました。 ですが、一人の人によって恵みがもたらされ、すべての人に無罪が言い渡されました。イエスと同じようには従順でなかった人にさえ、無罪は言い渡されました。 ところで、ここで言う「すべて」とはどういう意味でしょう? 現在も、未来も、そして過去も含まれるでしょうか。現在の「わたしたち」が、過去の父祖らと「一つになる」というのは上で見ましたね。質問者さんはどう思いますか。 で、もし過去の人々を含めての「すべて」だとすると、実はカトリックの無原罪の御宿りの教理につながります。ぶっちゃけた話、このご質問は古代から様々に論じられ、しかも結論の出ない話です。だから面白いとも言う。

旧約聖書の人々、キリスト誕生以前の人々の救いの議論は、昔からあったのですね。古くて新しい話題なんですね。ありがとうございます。 イエスを信じていない人にまで、救いを拡大してしまうと、キリスト教そのものが、論理的に破綻してしまいそうですが…。気持ちの上では、そう願いたい気もするのですが。

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イエス以前は律法を守ることによる救い、イエス以降はイエスを信じる信仰による救い…なんて教えられる人もあるようですが、ブレスさんがおっしゃっているように、聖書を見る限り、はじめから、信仰による救いであることは明らかです。 ところで、私たち異邦人は説明されてやっと分かることかもしれませんけど、ユダヤ人のみなさんの中では、聖書が詩的表現で「岩」だとか「若枝」だとかが登場すると、当たり前のようにそれはメシア、救い主のことだとパッと思う思考パターンなんだそうです。 つまり、神を信じる信仰に加え、メシアを信じる信仰が昔からある…。 私たちは過去に来られたメシアを信じる信仰をいただいていますが、旧約の彼らは、未来に来られるメシア、キリストを信じる信仰を持っていた…と言えると思います。 神と生ける交わりを持っていたダビデも詩編で歌っていますよね。 神から賜わったあなたの位は永遠にかぎりなく続き、あなたの王のつえは公平のつえである。 あなたは義を愛し、悪を憎む。このゆえに神、あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまさって、あなたに注がれた。 ( 詩篇 45 : 6-7 ) 主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。 ( 詩篇 110 : 1 ) これは口語訳ですが、ここを新改訳で読むとまた面白いです。 他にも、詩編を注意深く読めば、父なる神と、メシアがたくさん浮かび上がってくるでしょう。 更にさかのぼることができます。 アブラハムより以前の人、ヨブも、メシアのことを「知って」いました。 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。 ( ヨブ記 19 : 25-27 ) もっとさかのぼれます。 アダムとイブはエデンを追い出されることになりましたが、それまで神と歩んでいたので信じるもなにも神のことは知っていました。 もう一つ、彼らは信仰によって信じるべき望みをもっていました。 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえ(一人の人を指す単数)との間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 ( 創世記 3 : 14-15 ) すなわち、メシアの到来を信じる信仰…。 メシアを信じる信仰を持つ者たちは、神との生ける交流がありました。 そういう彼らに、預言や幻が与えられてこと、それ自体がそれを証明しています。 ここは推定ですが、カインとアベルは父アダムと母イブの神に対する信仰はあったでしょう。 カインとアベルのささげものの違いは、メシア(罪を除く神の小羊)を信じる信仰の有る無しが 現れていたのかもしれませんね…。 預言者たちがメシアを信じる信仰があったのは明らかです。 メシアの到来について預言していたのですから…。 イザヤ53章なんか、そのまんまだとは思いませんか?

大変面白くて、興味深いです。 旧約聖書に、キリストのひな型が、書かれているということを、ときどき、聞いたりします。そのことですね。 旧約聖書を、以前にも増して関心を持って読めそうです。 ありがとうございます。

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(彼らが知っている範囲での)神様に対する信仰です。 ただし彼らも(将来)キリストが罪を贖うことで、救われるので、彼らも「イエス・キリストによって」救われていることになります。

◎キリスト以前であっても、「信仰」によって救われる(義とされる)ことを示す聖書箇所 ローマ4:21~24 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼(アブラハム)の義とみなされたのです。 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。