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徳川家康は、なぜ、真田昌幸・幸村(信繁)親子を地続きの九度山蟄居に留めたので...

山江まろんさん

2015/6/2220:51:25

徳川家康は、なぜ、真田昌幸・幸村(信繁)親子を地続きの九度山蟄居に留めたのでしょう。
本多忠勝や、稲姫や、真田信之の助命もあったでしょうが、助命だけして、島へ流すという選択もあったと思うのです。

地続きに流したら、豊臣のオファーが、いくことは、知れていたと思うのですが・・・

ましてや、徳川を二度破っている真田昌幸と、その薫陶を受けた倅(せがれ)です。
ここは、宇喜多秀家よりさらに、島に流すべきじゃないかと思います。

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ベストアンサーに選ばれた回答

2015/6/2823:47:42

昌幸・幸村に対する真田信之の助命嘆願は
徳川へは相当粘り強く行われていたようで
高野山配流もそのお蔭だったと思います。

「豊臣のオファーが行くことは知れていた」?

関ヶ原の戦い以降、
徳川に対抗できる大名も殆どいなくなり
家康は実質的に政権を掌握し
本格的に豊臣の排除を進めますが
最初、それは決して武力ではなく
国替えや、秀頼の家康への謁見等
政治的な決着を試みています。

しかし、そのすべての試みが失敗し
大阪の陣へと突入する分けですが
果たして高野山配流の時点で
14年後の大阪の陣は予測できたのでしょうか?

現代に生きる我々ですら14年どころか
3年先の事もわからないのに・・・。

私たちは後の歴史を知っているので
色々なことが言えるわけです。

幸村にしても高野山配流の時点では
家康から見れば物の数ではなかったはずです。

質問した人からのコメント

2015/6/29 07:13:44

ありがとうございました。

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kan********さん

2015/6/2822:13:18

真田は西軍に与していたとはいえがっつり関わっていたわけではないですし

真田信之のみならず本多忠勝や井伊直政などの徳川の主力の助命嘆願もあり受け入れられました

kas********さん

2015/6/2321:18:09

関ヶ原戦は、豊臣大名内の、単なる派閥抗争。なので、徳川が、大坂の豊臣を討つ・敵視する、そんなことは考えていなかった。

これが近年流行の説の主旨ですかね。

つまり、これに従えば、関ヶ原戦の直後の、「戦後処理」においては、真田と大坂(豊臣)が結び付く・リンクする、そんな考えは、徳川には無かった、ただ、古来からの逃げ込み寺・流刑地だった高野山に、その慣例通り、真田親子を配流した、そんなところ、となるのでしょう(実際には高野山の麓・九度山村に流刑)。

存命させて島流しーーーその選択肢は有ったものの、やはり、徳川の重鎮・本多家とつながっていた、真田の長男・信幸の嘆願が効いたのでしょうね。

以上、関ヶ原戦は、豊臣大名内の単なる派閥抗争、徳川には、豊臣を討つ考え無し、との、近年の説に従った回答です。

now********さん

2015/6/2315:16:49

ご質問読ませていただきました。

私説ですが、次のように考えます。

一般的に、関ヶ原の戦いは石田対徳川という歴史的認識があるのは、「石田対徳川」なる構図を、江戸時代に徳川幕府が広く語りひろめ、公式記録に残したからだと思います。

徳川からすると、当初から豊臣対徳川の戦であるとの認識していたと思います。逆に豊臣にも石田対徳川の認識なかったと思います。

理由は、豊臣対徳川の戦だと、徳川が主家豊臣に謀反を起こしたことになります。実際はそうなんですが、それではまずいので、江戸時代の公式記録としては、石田対徳川の豊臣家家臣同士の争いにしたのだと考察します。

小山評定、江戸城、関ヶ原の進軍行程があまりに遅い、豊臣恩顧の大名に対して、豊臣対徳川の戦である事を認識させ、協力すれば、恩賞は豊臣家の領地と西軍諸将の領地を分配する事を確約し、手名付けたと思います。

実際に、 徳川は戦後処理で西軍敗者の領地や豊臣の所領まで、東軍勝者に恩賞として、かってに分け与えています。秀頼が手出し出来るはずがないのです。

東軍についた徳川恩顧の大名ですら、何の反発もしていません。理由は長期にわたり戦争状態のところ、2度の朝鮮出兵で、大名は誰もが疲れていました。不平不満が生じ、それが文治派や武闘派のような形になって現れています。領内も疲弊しており、大名たちの心は豊臣から離れ、徳川になびいたことが想像されます。

徳川は、関ヶ原の戦いで、豊臣の弱体化を進めることができたのです。

しかし、今なお徳川にとって豊臣は主家であり、次の戦を起こさなければなりません。豊臣を滅ぼさなければなりません。

そのために、利用されたのが、九度山の真田親子です。

九度山に宇喜多を幽閉しておけば、豊臣が徳川成敗を企てれば、間違いなく宇喜多は大阪城に入城したことでしょう。そうなると、五大老の宇喜多が立てば、豊臣恩顧の大名で、徳川に反旗を翻す諸将がでてくる事が予想できます。

しかし、同じ徳川に対して恨みを抱く大名でも、格下の真田であれば、豊臣恩顧の大名でも、豊臣方にはせ参じる者はいないだろうと考えました。つまり、真田親子は、追い込まれた豊臣が戦を起こすための、誘い水に使われたのだと考えます。

以上、参考まで。

oju********さん

2015/6/2315:02:30

身分も立場も、下の真田を厳しくできませんよ。高々、目に入るところに置いておく、です

img********さん

2015/6/2311:36:17

関ケ原(現場)での総大将格ー5大老の宇喜多秀家と小外様である真田家を同列、ましてや秀家を下扱いでは語れません

徳川を「破って」はいませんよ

徳川方の損害はほぼなく(第一次でも300程度の被害)関ヶ原時は「たった」3日秀忠と対峙しただけです(しかも、最初はのらりくらりと交渉していただけで、直接戦闘したのは3日ではありません)

家康が直接戦闘したわけでもありませんから、徳川勢の本気度が違います。

徳川に大きな被害ももたらしていない真田家ですから、九度山蟄居が妥当です

忠勝や信之の助命などは、当時でもはっきりとわからない話です

忠勝ではなく康政という話もあります

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