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義経VS頼朝で、なぜ義経に加勢する武将が少なかったのか 義経は1185年3月に壇ノ...

att********さん

2015/6/2620:04:19

義経VS頼朝で、なぜ義経に加勢する武将が少なかったのか

義経は1185年3月に壇ノ浦の戦いで勝利し、平家滅亡の立役者
となったが、兄弟共通の敵がいなくなったために兄弟の対立が

表面化、義経は頼朝に恭順するかそれとも敵対するかの選択を
迫られました。
義経は頼朝とならぶ清和源氏の主流であり、後白河法皇の支持
を受けていたし、実際に法皇から頼朝追悼の院旨も受けていた。
一方、頼朝は平家を滅亡させて源氏の世の中になったとは言え、
まだまだ日本の中心は京であり、東国の田舎でようやく地盤を
固めたに過ぎず、東北には藤原氏が依然として勢力を保持して
いた。徳川家康のような、その力を誰もが認めるような存在で
はまだなかったと思います。しかも家康のような力を持ってい
ても、関ヶ原では西軍にも拮抗した軍勢が集まっています。

このような状況で、義経が反旗をひるがえした後、義経に味方
する軍勢はほとんど集まらず、最後は後白河からも見放され、
あっという間に転落してしまいました。

私としては、なぜ義経がかくも短期間でヒーローから滅亡の道
をたどってしまったのかがどうしても分かりませんし、そこの
ところをうまく説明した、解説本も知りません。

1. 義経に人徳がなかったのでしょうか(人徳でいえばむしろ頼朝の
方が冷徹であったといわれています)
2. 周囲の大半の勢力は冷静に頼朝と義経の力量を計算して頼朝を
選んだのでしょうか(しかし戦でいえば義経の評判が高かった
と思います)
3. 源平の合戦が続いて、世間に厭戦気分が強く、また日本を二分する
ような戦を誰も望まなかったのでしょうか
それとも、他に何か理由があるのでしょうか?

補足皆さん、真摯なご意見ありがとうございます。皆さんのご意見を拝見して
戦国時代が既に武将同士の争いであったのに対して、時代は朝廷から武家
への権力の移行期にあって、朝廷派・守旧派とみられた義経よりも、新しい
武家の時代を代表する頼朝を支持したという理由があるのかなと感じますが
方向性はあっていますでしょうか?

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sto********さん

2015/6/2621:49:34

畿内近国の没官領(平家が支配していた所領を没収して、鎌倉御家人に与える予定の所領)を一時的に預かっていたのが源義経。
彼らにすれば、貰えるはずの所領を義経が不当に没官領を保持していると捉えていました。①

源義経に従った武士らの多くが平氏家人だった事。(東国武士に相当数存在していた)
源頼朝や義経に従った多くの武士は、平氏との和議を期待していた。

最終的に源義経は、後白河院の意向に従い平氏追討を強行した。
東国から従っていた平氏家人だった武士の多くはその際に離脱しています。②

離脱した武士を補充する為に、義経は西国で武士に参集するように廻文で伝達。③

①、②の武士達が義経に従わず、頼朝に従ったのは御理解できるかと思います。
③の武士達は後白河院に従う西面武士と呼ばれたが、後白河院が早々に義経を見限った事で、参集しなかった。

義経は後白河院の意向に従い平氏追討を強行した時点で東国武士から見限られた。
私はそのように理解しています。

  • sto********さん

    2015/6/2621:57:12

    五味文彦氏、川合康氏が源平合戦の時代に関して優れた内容の書籍を多く出されています。

    一度読まれてみてはいかがでしょうか。
    特に②の内容は俄かに信じられないと思いますが中世史を専攻する史家間ではほぼ通説化されています。

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質問した人からのコメント

2015/6/27 10:46:32

ありがとうございました。
みなさんのご解説、非常に参考になりました。

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wak********さん

2015/6/2710:30:14

だって義経は収入源を絶たれてしまったもの。
金がない者に兵は集まらないよ。
平家だって、貨幣の暴落で経済的に苦しくなって兵をやとえなくなったのが滅亡の一因だっていう説もある。

mek********さん

2015/6/2709:27:04

九州の緒方惟栄は阿蘇氏や日田氏などをまとめる九州の有力者で、義経を九州にかくまうための準備を進めていましたが、
嵐で義経一行とはぐれ、結局義経を九州に迎え入れることは叶わなかったといいます。

義経に味方する九州の緒方惟栄という武将はいたわけです。

bsc********さん

2015/6/2622:42:41

結局は世論を正しく読んで、見方につけられたのが、頼朝だったということではないでしょうか?

奢る平家があんなにあっけなく滅んだのも、同じことだと思います。

「既得権を潰して、本当の庶民の望む政治を行う。」これが出来なきゃ、いくら戦争に強くても、長続きはしないということだと思います。

とにかく、当時は律令国家から、封建主義国家へのリニューアルが必要だった時代で、それを考案できたのが唯一頼朝だけだったってことだと思います。

参考: http://bscppmm.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-57a9.html

huk********さん

2015/6/2620:30:35

漫画に ジパング というのがあり、
ちょうどあなたの質問に答えていると
思います。

事の真相の正否は解りませんが、
その漫画を中心に一個ずつ疑問をひも解いては?
これは、他の文献から正解だろう!と言う風に。

wak********さん

2015/6/2620:26:50

武家の利益を代表していたのが鎌倉政権。そのあたりのことは、のちに政子の演説の中でも言及されてますよね。そして頼朝は自分の官位ではなく、地頭の設置など、武家の利益を優先していた。その点、義経は官位を与えられたことに喜ぶ単純さ。これでは武家の利益より源氏の栄光ばかりを優先しそう。

多くの武家は、武家の利益を擁護する鎌倉政権を支持しただけです。

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