江戸時代の農民の年貢納入率は、四公六民と言われていますが、実際は2割7分6厘位だ...
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hjxy1045さん
編集あり2008/2/2322:40:53
税を取る前に、まず、所得や財産を調べる必要がありますね。農業が産業の中心だった時代は、その調査を「検地」と言いました。
これは、米の取れ高と、他の作物の収入等を米代に直したものを、合計してました。石高と言う単位で表します。
現代の農家は、所得の調査(申告)を1年ごとに為されますね。しかし、江戸時代は、まちまちです。地域によっては、17世紀
前半に1回だけ、なんてことも多くありました。つまり、江戸時代の終わり頃は、200年前の村の収入や財産を元に課税されて
た村も多くあったのです。
200年も前の収入の4割や5割なんて、ずいぶん軽い税ですよね。幕府の領地では、1700年ごろ、実質税率28%1800年
ごろで20%ぐらいだったらしいです。(新井白石は実質税率約28%と計算していました。)
吉宗は、税額を比率ではなくて定額にする「定免法」などによって、年貢の増徴をめざしましたが、実質税率は35%がやっとだ
そうで、吉宗の死後は、また30%を割りました。
田畑に90%も税をかけられた村もありましたが、この村の中心産業である海運と果樹園は無税でした。
(武士政権が減税してくれたというより、農民側が節税(脱税?)してたのです。)
当然、幕府や藩は、検地のやり直しをしたがります。そこで、検地反対の百姓一揆。一揆を起こされると、武士側の責任者が
責任を問われたり、悪評判を立てられて出世に響いたりするので、検地の強行は難しかったようです。
18世紀ぐらいから、現金収入を求めて、農民は綿花や煙草など商品作物の栽培に走ります。農民は、当然、自分で商品作物
を売って儲けようとします。これに目を付けた藩は、商品作物を農民から強制的に安く買って、藩が市場で売って儲けようとしま
す。これを専売制と言います。そして、専売制に反対する一揆。このタイプの一揆が江戸時代後半の中心です。
※豊かな農民は、貧しさを強調する作文を子供時代から練習し、大人になれば村の代表として、それを代官に提出しました。
ウソと知りつつ代官も、一揆を防ぐことと、自身の評判のために「君子人」として、それを認めたりしました。
この種の文書が後世、貧しい農民像を造ってしまったのです。
※その地に自生できるような芋や雑穀を多く植えて貯蔵しておけば、飢饉など起こりません。しかし、人間は、現金収入を求め、
儲けにならない仕事は嫌うものです。
津軽の飢饉は、豊作を予想して貯蔵米を売って大儲けした時に、冷夏がきて食料不足になりました。農民は金貨を握って死に
ました。
甲斐の飢饉は、綿花栽培のみに賭けたが、綿が暴落して破産した農民が飢え死にしました。
苛政というよりは、不慣れな貨幣経済・市場経済に巻き込まれる悲劇と言うべきでしょう。
※当時は「兼業農家」という言葉はありません。ですから、農業外収入の大きい「第二種兼業農家」は、「水呑み百姓」とされ
ました。当然、「水呑み」=貧しいわけではありません。
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編集あり2008/2/2513:54:33
かんたんな算数です。
江戸時代の農民は、人口の9割以上でした。
武士やなにやらは1割りもいなかったのです。
ここで、『四公六民』とすると、1割の武士らが4割の米を食べて、9割の農民が6割の米を食べることになります。
武士という身分の違いがあっても、米を食べる胃袋の大きさは同じです。
ですから、『四公六民』自体がウソとわかります。米は、まわり回って農民に戻っていたと考えなければならないのです。
なお、米は次の歳に持ち越すことが難しい食べ物なんです。
江戸時代の『貧困農民史観』は、サヨクのデタラメです。
参考、
(財)協同組合経営研究所元研究員 今野 聰
『講談 日本通史』
大濱徹也著
定 価:2800円+税
発行所:同成社 03-3239-1467
発行日:2005年2月25日
今年は戦後60年。加えて日露戦争講和条約100年。という訳で歴史ブームである。日本農業・農協運動にとっても新基本法による基本計画の見直しと新計画策定の年でもある。なるほど、なんとなく区切りの年だ。その所為か、WTO交渉のゴールがありそうで、一方攻めの農産物輸出計画がうたわれる。一方、韓国と竹島帰属問題で煙り立つ。国内では、憲法改正と女性天皇制論議が妙に絡み合って本格化しつつある。
長い前置きになったが、この本は歴史専門出版社からのタイムリーな企画である。この際稲作を始め、日本農業が古代からどう現在に至ったか、通史から学ぶのに絶好の本だ。とかく日本通史は戦前なら皇国史観、戦後長くは唯物論に影響された人民史観が両翼だった。そこに農業史も埋め込まれ、天皇家に深い関係をもつ稲作とか農民の貧困だけがクローズアップされてきた。
本書の特徴の第1は、島国として世界に開かれたこの国のかたちである。稲作が中国・朝鮮半島を経由して、日本に瑞穂の国を齎した経過も、天皇家の成立と伊勢神宮の関係も、果ては仏教・キリスト教の伝来も、冷めて記述される。江戸期のお伊勢講も80%は遊びだったと清々しい。
第2は、長期間に渡って日本は東洋1の金生産とそれを交易の手段化した過程の記述だ。卑弥呼の古代から、中国・朝鮮との交易は継続され、その影響を大きく受けた。遣隋使・遣唐使、宋・明貿易は勿論。江戸期の鎖国制度さえ長崎など特定港限定によった、徳川大権益貿易だったとするイメージ転換である。
第3は、近代日本が天皇神格化を通じて形成され、その上で日清・日露・第1次大戦・第2次大戦と10年ごとに戦争が行なわれた。そうしたアジア進出を支える大東亜共栄圏構想が築かれた。そこに「靖国の母」になって普通の母親が根こそぎ動員されという記述である。
こうして著者の歴史観は、「自分の母文化をどうみるか、勝手口から世界をどう読むか」(あとがき)である。ここには、一般通史的空洞をこえた面白さ、「身の回りから日本、そして世界を読み解く作業」(あとがき)に相当程度成功しているなと思う。
不満もある。現在の食料自給率40%が大問題だから、これを歴史的形成に戻す作業である。小作人平準化という戦前構想が、戦後農地解放の基だというのは良い。それなら、戦前の朝鮮・台湾の植民地経営によった米移入(実は収奪だが)、その上での旧満州での興農計画と日本からの分村参入(侵略)はカットできない歴史的事実であろう。今日、基本食料の自給が心もとないのに、不安をもたない国民意識は正に「勝手口」から問題なのだ。東アジア共同体がまたぞろ言われる。どうも危ういと思う。
著者は1937年生まれ。2000年、筑波大学在職ラストの記念に連続講義した。それがこの本の成り立ちである。だから「講談」だとわかる。
(2005.5.13
補足、《平均的な農民でもその土地にずっと縛り付けられて劣悪な状況だったと》も嘘です。領主に不満があると『逃散》と言って、他国に逃げたりしていました。または、次男坊以下は商家に入ったり、僧侶になったりしていました。
逃散 - Wikipedia
逃散 (ちょうさん)とは、日本の 中世 から 近世 にかけて行われた 農民 抵抗の手段、闘争形態である。古代の律令時代に本貫から逃れて流浪する 逃亡 とは区別される
ja.wikipedia.org/wiki/逃散
2008/2/2311:46:30
検見から定免へ
検見取りは検見役人を派遣するのに費用がかかります。農民にとっても、検見が終わらなければ取り入れが出来ず、年貢率を低くして貰うために役人を丁重にもてなしたり、賄賂を送ったりと負担が大きいものでした。そこで、定免といって、過去数年間の率から推定した年貢率をあらかじめ設定するようになりました。五年か一〇年間が期限で、終わると農民側からまた願うという形式を取り、前より少し高く設定されます。しかし、洪水や日照りなどで三〇パーセント以上の被害があった場合は、一時定免を停止し、検見によって年貢量が決められました。これを「破免」といいます。あらかじめ年貢量を決めていても、農民が立ち行かなくなったときは収納しないというのは、江戸時代の武士と百姓の一種の契約関係を示していて、地租改正以後の近代的な取り立てと決定的に違います。
だんだん年貢がとれなくなる幕府
ところで、年貢率をかけるもとになる村高とは一体何でしょうか。それは村の生産力、つまり村が作り出す富の総量を米の量に換算して示した数字です。太閤検地の強行によって全国一律の基準で領主がつかんだものです。この村高はほとんどの村では寛文~元禄期までの検地によって定まってしまいます。未墾地の開発はこの時代までにほぼ終わり、それ以後は商品価値の高い作物を工夫して作る時代に入りました。この時代以降、村の富は増大しても村高の増加としては現れない。その点で江戸前期頃より農民の中に余裕が出来てくるわけです。ところが、これと並行して年貢率が下がってしまいます。
八代将軍吉宗は、このような課題に取り組み、新田開発や定免法、有毛検見法などを採用しました。有毛検見は村高に関係なく実際の出来高をつかもうというもので、農民にとっては過酷な徴租法でした。このような政策を実行した神尾春央が「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほどとれる」と放言したことはあまりにも有名です。しかし、この放言の前提として、農民がすでに豊かになっている事を理解しておく必要があるでしょう。神尾の放言にかかわらず、幕府の一七一六(享保元)年から一八四一(天保一二)年までの年貢率は三〇~四〇パーセントであり、四公六民から三公七民という状態になってしまいました。
このような中で、幕府が新たに検地を行って村高をつかみ直すことは、新田以外はほとんど不可能に近い状態でした。一八四二(天保一三)年、天保の改革のとき近江国で行おうとした幕領検地は、農民の反対によって粉砕されてしまいます。このように、農民達は着実に自分たちの剰余を膨らませ、次の時代を準備していきました。だから、江戸時代の農民を悲惨だとばかり見る見方は正しいとは言えないのです。
2008/2/2311:29:36
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