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関が原合戦のころには一体何人の中納言がいたのでしょうか?思いつく限りでも 毛...

sai********さん

2008/2/2716:13:55

関が原合戦のころには一体何人の中納言がいたのでしょうか?思いつく限りでも
毛利・宇喜多・上杉・小早川・前田・秀忠…
豊臣一族や大大名はみんな中納言であるように思います。

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ベストアンサーに選ばれた回答

osa********さん

2008/2/2717:04:42

中納言という官職は、一応太政官の次官という役職ですが
そもそも令外(律令に制定されている以外)の官職で
その職掌は当初からかなり曖昧なものでした。

『納言』とは下の言葉を上に奏上し、上の言葉を下に伝える、
という意味で、言葉のパイプ役を務める職を意味していたもので
大納言という役職には、大臣の役職を代行するという役目もありました。

中納言という官職自体が大納言を補う、言ってみれば
「権大納言」に近いものとして定められたものに近いと言えると思います。
(中納言は大臣の役職を代行することはできませんでした。)

しかもその定員は時代とともに大幅に変更されています。
705年、初めて置かれたときは3名だったものが
その後10名、さらに後鳥羽天皇の時代に8名に定員が変更され
南北朝の時代以降、さらに正員がなくなり、すべて権官だけになりました。
つまり、関ヶ原の合戦の時点では
厳密に言えば、「中納言」に任官されたものは存在せず
全員が「権中納言」だったことになります。

関ヶ原の合戦当時は
豊臣秀頼も権中納言に任官していましたし
武家以外でも、公家でこの官職に任官していた者もいました。
ただし、秀忠はこれより前に権中納言は辞任しています。
(厳密な人数は不明ですが10名前後はいたものだと思われます。)

武家の官職は、ほとんど格式だけというか、一種の格付けの意味が強かったのだと思います。

秀頼は、当然、大臣(あるいは関白)になるまでの途中の官位として任官したもので
毛利輝元、上杉景勝、宇喜田秀家、前田利長は五大老として任じられたもの
小早川秀秋は秀吉の身内として任じられたものだと考えられます。

豊臣政権における官職は
頂点の「関白」から
家康の「内大臣」、前田利家の「権大納言」だけを別格にして
五大老と一族の秀秋を「権中納言」に任官させたピラミッド型の官職で格付けをしていたものだと思います。
(秀忠は「別格」だった家康の跡継ぎとして任じられたものです。)

質問した人からのコメント

2008/2/28 20:06:54

なるほど、定員自体がなかったんですね!
他にも結城秀康もだったと思い出しました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

aeg********さん

2008/2/2809:39:18

豊家五大老は、筆頭の徳川家康が内大臣正二位。
前田利家は従二位行権大納言。毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、上杉景勝らは、権中納言従三位でした。
関白を筆頭にした武家政権ですから、主要な諸大名の官位も自ずと上がることになります。
これを危惧した家康は征夷大将軍になるに及び武家の官位を低めにしたのです。
さて、慶長5年関が原の戦いのころの武家は、
徳川家康の内大臣正二位を筆頭にして、豊臣秀頼は従二位行権中納言。岐阜の織田秀信は権中納言従三位。
徳川秀忠、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、前田利長、小早川秀秋らは、権中納言を辞しており、前権中納言従三位でした。

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