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三国志・劉表配下の趙戩とはどのような人物なのでしょうか? いつごろ配下に加...

sad********さん

2015/11/1618:07:13

三国志・劉表配下の趙戩とはどのような人物なのでしょうか?

いつごろ配下に加わった人物ですか?
wikiによると、曹操は、召抱えるのが遅れることを嘆いたそうですが、具体的に何をしたのでしょうか?

傅幹と論戦を交わす同名の人物が出てきますが、この趙戩は同一人物と見てもよいのでしょうか?

補足ありがとうございます。劉表配下時代より董卓政権時代のほうが目立ってる人ですねえ。曹操がベタ褒めしてただけに残念。

しかし曹操。新人が来たときの対応がいつもオーバーですな。曹操流の人心掌握術なんでしょうかねえ?

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ベストアンサーに選ばれた回答

te9********さん

2015/11/1619:56:31

趙戩は三国志本文に記述はなく

先主伝注に2か所名前が見えます。

傅子と典略に記述されてます。
近いところに記述があるので
少なくとも裴松之は同一人物だと思っていたようです。

典略によると
字は叔茂で

董卓に気に入られていたのですが
彼は厳しい態度で董卓に臨みました。
董卓は殺害しようとしましたが、事の是非を述べ立てて、なんと董卓を屈服させ、謝罪させることに成功しました。

その後、王允が死ぬと、官を捨てて遺体を収容した、と記述があります。
三輔が混乱に陥ると荊州に身を寄せた、とあるので
192~194年ぐらいに劉表配下となったのではないか、と思います。

  • te9********さん

    2015/11/1701:08:24

    hurubokkotyanさんの言われているのは


    趙韙ではないかと思われます。

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質問した人からのコメント

2015/11/18 18:45:24

皆様、ありがとうございました!

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hur********さん

2015/11/1700:11:16

先行回答の通りで、王允の遺骸を収容した他には、特に目ぼしいところは無いのですが一応…。

正史『三国志』本文に登場するのは、劉焉親子の配下である趙戩で、これはご質問の人とは別人ですね。
劉表配下の趙戩は『典略』、傅幹と論戦を交わす趙戩は『傅子』に登場。
『傅子』では丞相(曹操)掾、『典略』では丞相掾、五官中郎将(曹丕)司馬、相国(鍾繇)掾という経歴が載っており、同一人物と思われます。

宮城谷三国志の4巻に、趙戩が王允の遺骸を収容するシーンがあったりします。
王允は董卓を誅殺した名臣であり、その死に長安の人民全てが涙を流したそうですが、李傕らにビビッて、晒されていた王允の遺骸に近付ける人はいませんでした。
それを、勇気と義気で以って収容したのがこの人、というわけです。

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sai********さん

2015/11/1621:35:24

Enpediaに趙セン叔茂で記事がありました。

董卓の時代からの硬骨漢で、李傕の時代に王允を弔い、その後に劉表を頼ったらしいので、たぶん192年以降に劉表に従ったものと思われます。

曹操の時代には曹丕の司馬、鍾繇の補佐を務めて60歳くらいで亡くなった、とあります。

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