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忠臣蔵について

fun********さん

2016/2/1723:53:31

忠臣蔵について

忠臣蔵の事件は江戸時代なのにどうして歌舞伎で語られるときは鎌倉時代なのでしょうか?
また、どうして忠臣蔵が起こったのでしょうか?

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ban********さん

編集あり2016/2/1910:14:33

「忠臣蔵」というのは、芝居の名前であって、実在の赤穂事件と芝居の忠臣蔵は完全に別物です。まず、ここんところ確認してください。
鎌倉時代ではなく室町時代、このへんは皆さん簡単に突っ込んでますが、質問者さんは多分「曽我兄弟の仇討ち」芝居と混同されているんだと思います。
赤穂浪士の討ち入り事件が起き、世間は赤穂義士人気で沸騰します。さあ、これに当て込んだ芝居をすぐにでも上演すれば大当たり間違いなしです、が、そう簡単に赤穂事件を上手く脚色した芝居は作れません、(NHKの「ちかえもん」で、先々週あたり、近松が書こうとしたけどなかなか書けない、というシーンがありましたね)。そこで、江戸じゅうの芝居小屋が、一斉に「曽我狂言」の再演をはじめたんです。鎌倉時代のはじめ、曽我十郎・五郎の兄弟が、親を殺して領地を奪った仇である工藤祐経を富士の巻狩りの場で討つ物語です。この工藤祐経は将軍頼朝の側近であり、兄弟は実は最終的に「巨悪」である頼朝を殺そうとして果たせなかった、という説もあります。そういうことを江戸の芝居好きはみんな熟知してますから、これを「正義の武士が、将軍の側近(だと庶民は思ってた)の吉良を討って、幕府の鼻をあかした物語」として、大喜びで見たわけです。
現在でも、正月のおめでたいときには「寿曽我仇討」なんていう芝居を歌舞伎座では必ずかけますが、これは、赤穂事件以来の「仇討ち成就はめでたい」というブームが今もずっと続いてるってことなんです。
江戸庶民にとって仇討ち事件は、今でいうワールドカップ予選で日本が勝ったくらいの、熱狂的になれる大事件だった、というわけです。
なので「仇討ち成就記念スペシャル特番」として、鎌倉時代の曽我兄弟が、しばらくのあいだ、赤穂義士のかわりに持て囃されたわけです。
やがて、芝居作家たちは、いい題材を見つけます。室町時代のはじめ、足利尊氏(また初代将軍だ)の側近・高師直(こうのもろのう)が、塩谷判官(えんやはんがん)という大名の妻にヨコシマな懸想をし、拒絶された腹いせに塩谷家に難癖をつけて攻め滅ぼしてしまった、という、まさにゲスの極みな、実際にあった歴史的事件です。なんとまあ、パロディにはピッタリです。高家筆頭の吉良=高師直、塩の名産地赤穂の大名浅野内匠頭=塩谷判官、これはもうドンピシャじゃないか。
そこで、この「歴史上の事件」のストーリーのなかに、実際の赤穂四十七士討ち入り事件を、うまいこともぐりこませた芝居を作ったのです。
ですから、「忠臣蔵」には、吉良も浅野も大石も、一切出てきません。出てくるろのは高師直、塩谷判官、そして大星由良助(おおぼしゆらのすけ)です。
この芝居のタイトル「仮名手本忠臣蔵」というのは、暗号なんです。仮名手本というのは、いろはにほへと、つまり四十七文字、という意味で、「これはみなさんご存じの四十七士のお話ですよ」。「忠臣蔵」というのは、「ここに出てくる大星由良助ってのは、皆さんご存じの、あの忠臣・大石内蔵助サンのことですよ」っていうことです。大きな声では言えないけど、っていうか、充分に大きな声で言ってるわけですが、当時の江戸幕府ってのは、「そのものズバリの名前を出さず、架空の話ですよって体裁さえ整えれば、まあ、とやかくは言わない」という、わりと寛大な検閲体制だったんです。無用に取り締まって庶民に恨まれても得策じゃないし、むしろ「忠臣を持ち上げる」というのは、お上としても悪いことじゃないからです。
というわけで、「仮名手本忠臣蔵」は大当たりしました。だもんで、みんな、この芝居のストーリーを現実の事件と混同してます。が、あれはぜんぶ「足利時代に起こったはなし」を元にした創作です、吉良が浅野をいじめていた、というのは大間違いです。この話は長くなりますが、そもそも浅野が吉良に儀式の最中に斬りかかったのは、緊張のあまり錯乱したというあたりがどうやら真相らしいです。
殿中で刀を抜けば、それは幕府に対する反逆行為とみなされ、問答無用で切腹。これは仕方ない。ただ「精神錯乱」なら、謀反の意志はなかったとみなされ、本人は切腹でもお家は断絶しなくてすむはずだ、というのが当時の判例でした。
しかし、晴れの儀式をブチ壊されて激怒した将軍綱吉が、精神耗弱を認めなかった。なので、赤穂浪士団は「オレたちの失業は不当だ」として抗議行動を起こしたのです。これが「赤穂事件」のざっとした事実関係です。「忠臣蔵」のストーリーとは全然違います。

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cho********さん

2016/2/2100:40:29

現在で言うなら、例えば某大手家具会社のお家騒動。衆知を集めた話題を舞台化する際、そのままの背景や固有名詞で上演することは何かとはばかれますよね。

歌舞伎における忠臣蔵もまさしくその通り。敢えて時代背景を鎌倉に移し、登場人物も実名を捩っていますが、微妙に少しずつ違えています。

忠臣蔵自体は兵庫県赤穂の大名が切腹を命じられ、お家は解体。その藩士が忠義心で「仇討」を実行する事件が実際に起き、その話題性の大きさから歌舞伎をはじめ、様々な芸能に表現されたようです。

bor********さん

2016/2/2010:27:41

赤穂事件を元にして「忠臣蔵」ができました。
しかしそのまま実名でやると幕府に怒られてしまうので時代を変え、名前も変えたわけですね。
赤穂事件というのが実際にありまして、それを元にして「忠臣蔵」というフィクションが造られたのです。
今私たちが認識してる忠臣蔵のエピソードはほとんどフィクションです。
赤穂事件は「仇討」ですらありません。
親分が人を殺そうとして殺し損ねて捕まって死刑になった。
子分がその親分の代わりに殺し損ねた人を代わりに殺した、という事件です。
これのどこが仇討なのでしょうか。

nec********さん

2016/2/2009:53:34

【吉良邸討入りに至る経緯】
徳川家は天皇より征夷大将軍に任ぜられてこその将軍家でありえたので、定期的に勅使(帝からの使者)を招かねばならなかった。
惧れ多くも天皇家からの使者であるので勅使に対しては幕府として最大の賓客として饗応せねばならなかった。
しかし幕府財政はひっ迫していたので、元禄14年(1701年)春の饗応は財政が豊かだった赤穂藩浅野家が任ぜられることになった。
これはたいへん名誉なことである。しかし「田舎侍」浅野家が饗応に応じる流儀作法に通じているはずもなく、その指南役として任ぜられたのが吉良上野介。
ちなみに浅野家が豊かだったのは製塩による利益を得ていたから。そこに目をつけた上野介は、こともあろうに指南役の代償として製塩技術を教えろと要求。
今風に言えば、政府から任された仕事であるにもかかわらず、
「代償にオマエのところの企業秘密を公開せよ」
と迫ったようなもの。
こんな横暴な要望を浅野内匠頭が突っぱねると、上野介は指南をサボタージュ。
それに業を煮やした浅野内匠頭はついに江戸城内 松の廊下で吉良上野介を斬りつけてしまったのである。
江戸城内での刃傷沙汰はご法度であったので、浅野内匠頭は将軍から即日切腹を命ぜられ、浅野家はお取り潰し、領地も没収という最悪の結末となってしまった。
ところが、浅野内匠頭に意地悪をしていた吉良上野介はお咎めなし。
江戸町民の世論も「浅野の殿様」への同情論が多かったが、誰よりもその幕府のご沙汰に憤懣やるかたなかったのは赤穂藩浅野家の家臣。
武士の身分を失いながらも周到に準備し、遂に翌 元禄15年12月14日未明、吉良邸に討入り上野介に切腹を要求。
その際、上野介が身を隠し、見つかったと思ったら命乞いしたので、武士にあるまじき外道として「仇討ち」されたとされる。
そして本懐を成し遂げた赤穂浪士四十七士は逃げ隠れせず、堂々と公儀のご沙汰を仰いだ。

【吉良邸討入りその後】
天下泰平で平和過ぎた元禄時代に起きたこの事件は大変な反響を呼んだ。
当時は仇討ちは正当な行為であった。
しかし将軍に切腹を命ぜられた君主の仇討ちは、幕府としては正当な仇討ちとは認めるわけにはいかなかった。そのことは大石内蔵助以下四十七士も先刻承知であった。その上で死を決しての討入りであった。
これを、情けに厚い江戸町民が同情しないわけはなく、瓦版も飛ぶように売れ固唾をのんで見守った。
本来、武士の身分では無くなった浪人が死に値する罪を犯した場合、平民と同様に死罪となるのが本筋。
しかし亡き君主への忠義の念は天晴であるとし、四十七士は武士として扱われ切腹を命じられた。
今の感覚、あるいは当時でも庶民感覚では冷酷な裁きと思われたが、実は公儀としても温情ある「ご沙汰」だったのであった。

【「舞台化」】
江戸町人は四十七士を大いに悼みました。
「さんざん苦労して、やっと殿様の仇討ちを成し遂げたってーのに、なんで腹切らなきゃならなかったんだ? しでぇ(酷い)話じゃねーか!」
と怒っていたのが庶民感覚。
そこで当然の流れでいろんな形で演劇化されることに。
実はこの吉良邸討入りを扱った演目が「ご法度」になったというわけではなく、端から作者の方が、ご法度にならないよう'自主規制'をしたというのが真相のようです。
そのため歌舞伎においては時代設定を変え、あたかも別事件を描いたかのように登場人物名も変えての公演となったわけ。
しかし内蔵助が「由良之助」、浪士も47人と、誰がどう観ても吉良邸討入り事件を題材にした演目であることは明らかだったのですが、そこまでいくと江戸幕府としても「お目こぼし」するしかなかったようです。
実は幕府も案外と温情的だったと思われます。

ちなみに歌舞伎は、なぜ「仮名手本忠臣蔵」と題されたかについては諸説ありますが、「いろは」が偶然47文字で四十七士と一致するほか、

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

行の最後の文字を並べると「とかなくてしす」…咎なくて死す
つまり罪が無いのに死んだ、という暗号説が、かなり有力です。

s_u********さん

2016/2/1822:23:08

時は元禄の江戸末期でしたが 当時としては 大変な社会問題でした!お上から その忠臣蔵の事件「赤穂事件」と言いますが
赤穂事件は庶民の最大の娯楽である歌舞伎でさえ 芝居にしてはいけない!御法度でした
そこで苦肉の策として時代背景や登場人物名 物語そのものも変えて おこなった
ものです
当時の江戸の庶民達は 赤穂浪士達こそ
あっぱれ武士の鏡と褒め称えていましたし
公儀に対し不満を募らせていましたから
抑えようもない美談として現代まで
語リ継がれて来たのです

jnr********さん

2016/2/1821:59:34

赤穂浪士討入りに至る事件は、江戸っ子の共感を呼び、脚色をかなりやった仮名手本忠臣蔵が作られた。
仮にも江戸幕府に刃向かった人物を取り上げるため、武士道を強調したり時代を変えるなどした。

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