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大乗仏教「仏帰依」の完成について この文章をどう思われますか?

nom********さん

2016/4/1016:33:45

大乗仏教「仏帰依」の完成について

この文章をどう思われますか?

大乗仏教「仏帰依」の完成について

釈尊の入滅という厳粛な出来事を突きつけられてサンガは否応なしに「法帰依」を選択させられます。釈尊を直に知っている人が少なくなるとウパグプタ(北伝、付法蔵第4祖)のような優れた比丘は「仏」のいない仏教に耐えられず「仏帰依」をもとめ、どうしようもなくて悪魔に頼んで「釈尊」を「示現」してもらったりします。
時間がたてば優れた比丘はさらに「仏」恋慕の感情を高揚させますが「無余涅槃」(虚無の直証)という厳粛すぎるくらい厳粛な壁は当然越えられません(超えられないことは彼らが一番よく知っています。
「仏」恋慕の対象を「釈尊」から「他方仏国土の現在仏」に移して「仏帰依」を実現し、ここに「大乗仏教」が成立します。
虚無を直証した(=無為法となった)「釈尊」は礼拝や供養の対象にはなれません。
(ちなみに大日如来、阿弥陀如来、観音菩薩、不動明王等々は全て「現在仏」です。
有為法の領域に居ます。永遠ではありません。無常を示現します。
だからこそ礼拝、供養する意味があります。)現在仏信仰が完成するのは弘法大師空海です。教主を大日如来として「釈尊」のいらない仏教をはじめて(?)完成させたのです。
以前から釈尊のような菩薩行を終えた等覚、妙覚の如来が何ゆえ菩薩行でもっとも忌避される無余涅槃の直証を行ったのか?
疑問だったのですが無余涅槃は「示現」しただけだと理解して会通できました。
「無住處涅槃」の中で「無余涅槃」を「示現」したのは後世のサンガに無意味な過去仏への恋慕を捨てさせて現在仏への恋慕に転換させる為です。

野村懐忍(高野山東京別院執事)俗名 一郎

補足出典

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=452988204777378&i...

釈尊,帰依,恋慕,ウパグプタ,大乗仏教,佐々木閑,パーリー

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aks********さん

2016/4/1609:18:23

これは大乗仏教の起源・始まりについて書いている文章。よく書けている、aksobhyavajraさんが書いてるんだから当然だnomura_enin_ichirouさんには書けない、

書けない以前に読めない、この質問は「おねげーでごぜーますだ、どう読むか、教えてください」と言う質問だ、小学生にも分かるように教えてくださいと言いたいなら小学校に入学するのが先だ、以前「口の利き方を教えてやる」と言ったと思うが、3歳児に分からせる自信は無いが「口の利き方を教える」前に教えてやる。

これは大乗仏教の起源・始まりについて書いている文章。しかしながらこの時点では釈尊がビクサンガを破門・絶縁したと言う発想は無いので精一杯この程度のことしかいえない、ビクサンガの破門と言う発想に到達したのは中村元氏が『ブッダ最後の旅』で修行僧のなかま、修行僧たち、修行僧のつどい、と訳している言葉の原語がPTS本で「bhikkhu saMgha」ビクサンガだと分かった時だ。
今では釈尊がテーラワーダ・小乗を非仏教・外道と決定しているということに気づいたのだから大乗仏教の起源も遥かにスッキリと見えてくる。

佐々木閑氏のように釈尊の仏教は合理的、論理的、科学的であったと言う「おめでたい妄想」やインド・東南アジアの一般大衆が哲学者・科学者のように知的レベルか極めて高かったと言う「しあわせな信仰」が私には持てない。

佐々木閑氏は読んでないのか!!

渡辺照宏『お経の話』岩波新書
p.19
>このように、およそ確実な資料を基礎として公平に論じる以上は、大乗経典が小乗経典よりも後の時代に成立したと断定すべき証拠は見いだされない。そのうえ同じ小乗経典のうちでも、漢訳の”阿含”とパーリ文”ニカーヤ”との同文を比較してみると、前者の方が明らかに古い形を伝えていることが多い。
p.21
>あらゆる神秘性を排除し、神も奇跡もなく、宗教儀礼もおこなわず、ただ”縁起”の論理を理解し、信仰のうらづけのない倫理と禁欲生活とのみを要請するような宗教に、数千の無知な大衆がどうしてついて行けたであろうか。この理由ひとつからみても、仏陀の時代の仏教は現存のパーリ文聖典よりも、もっとずっと宗教儀礼や信仰の要素が多かったに違いない(S.Schayer,J.Przyluski,C.Regamey,A.B.Keith)。
すなわち、パーリ文聖典はかつて実際に存在していた教えの中から、出家教団にふさわしいもののみをより抜いて新しく編集したものと考えられる。
p.74
>そのうえ神話や繁雑な儀礼をともなわない南方仏教の形態がドイツ、英国、オランダなどのプロテスタント国の学者には好ましく思われたので、パーリ仏教を”原始仏教”(仏陀自身の仏教)と同一視する傾向を助成したとも見られる(ポーランドの仏教学者シャイエルのことば)。

50年近く前の論文。
佐伯真光「明治仏教100年の錯誤 -根本仏教神話を非神話化しようー 」『大法輪』昭和43(1968)年4月号。『アメリカ式人の死に方』自由国民社。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n366421(部分)

抜粋
>明治以後今日(付加1968、昭和43年)まで、日本の仏教界には一つの神話がおこなわれてきた。それは仏教が本来合理的、理性的、科学的な宗教であり、かつてインドには純粋で明澄な原始仏教なるものが実在したという神話である。

>理性的宗教としての仏教
いわゆる合理的宗教としての仏教と言う神話がつくりだされたのは、十九世紀のヨーロッパにおいてだった。ヨーロッパの学者が本格的に仏教に接触し、その研究をはじめたとき、彼等は、十九世紀合理主義の立場に立って、パーリ語文献のなかから好みに合う部分だけをひろい出し、まったく頭の中だけで純粋・明澄な原始仏教なるものを、虚構したのである。十九世紀といえば、近代ヨーロッパ思想の主潮流だった合理主義がその完成期に達した時であったし、またその立場からするキリスト教批判が最も盛んにおこなわれた時期にもあたっていた。この時に紹介されたパーリ語仏教はヨーロッパ人の目に驚くべき合理性をもった、新鮮な宗教体系として映じたのである。彼等はこの中に、ヨーロッパの<非合理的な>宗教には見出されないユニークな法則化認識を求めて、四諦・八正道・三法印・十二縁起などという教義をひろい出し、このような<近代的思惟>をうみ出した古代の東洋の智慧に随喜した。今からみると、オルデンベルク、ノイマン、ガイガー、ヴィンテルニッツ、初期のリス・ディヴィズ等によって描かれた原始仏教の世界は、彼等自身の先入観の無意識的な投影だったのである。彼等はパーリ仏典を彼等自身の思想的立場から勝手に<解釈>していたにすぎない。

>しかし、このような先入見にみちたヨーロッパ人の仏教観は半世紀も続かなかった。パーリ文献から、サンスクリット、チベット語文献へ、さらにシナ、日本の仏教へと欧米人の視野が拡大し、欧米の学者が漢訳大蔵経を読みこなすようになると、事情は一変した。これはまたヨーロッパ仏教学の主流が、ドイツ・イギリス系学者の手から、フランス・イタリア・ポーランド系学者の手へ ー すなわちプロテスタント系からカトリック系へ ー と移った事情とも平行している。今世紀(付加、21世紀ではない20世紀)に入ってからは、仏教をインド思想の流れの一環として、あるがままの姿でとらえようとする立場がヨーロッパの学界では確立した。パーリ文献を虚心に読むならば、そこには必ずしも倫理宗教としての仏教ばかりでなく、古代人ならば当然抱いたであろうような無知や俗信が混在していることがわかる。そして古代人の一人だった歴史的仏陀が十九世紀合理主義者と同じように思索し行動したと考えることのほうが、むしろ不合理だということがわかるだろう。

こうした仏教観を一番はっきりと打ちだしたのは、仏教学のポーランド学派の祖ともいうべきスタニスラフ・シャイエル(付加1899-1941)であろう。彼は初期の著作『救済教としての大乗仏教』以来、『東方の諸宗教』におさめられた晩年の論文にいたるまで、一貫して、仏教は単なる倫理教であったことはなく、最初からそれ自身の神話と祭儀と救済の教義を持った宗教であったと主張してきた。彼の所論は要するに、小乗仏教のあとに大乗仏教がくるのではなく、多くの神秘的教義を含んだ大乗仏教こそ、最初期の仏教に直接由来するものだという点にある。

シャイエルの個々の議論にはいろいろの問題があるのはたしかだが、彼によって代表される一群の学者の出現によって、原始仏教神話が完全にうちくだかれ、第二次世界大戦後には合理的宗教としての原始仏教を説くような「神がかり的」な学者はヨーロッパでは一人もみられなくなったことはたしかである。欧米仏教学の解説付綜合論文目録であるビブリオグラフィ・ブディクをみれば、そのことは極めて明瞭である。そして文献研究の進展とともに、今まで最古層の仏教文献とされてきた法句経やスッタ・二パータを仏陀金口(こんく)の直説とする考えも次第に根拠をうしない、歴史的仏陀の人間像は沙門文学の伝承中に解消していきつつある。非神話化から実存論的神学へと展開したキリスト教の場合と非常に類似した状況が仏教についても起こってきた。


>姉崎は十九世紀ヨーロッパの仏教研究の成果を日本に紹介し、原典研究という新しい学問の地平線をひらいた。その功績は大きい。しかし同時に、貧弱で偏見に満ちた当時のヨーロッパ人の仏教観を直輸入し、古代インドにそのような理想的宗教が実在したのかのように説いた。これは国学者の古道崇拝、儒者の聖人信仰とまったく揆を一にしている。しかも宣長が「古代人の認識したところを真実としてこれを信仰した」のにくらべると、姉崎は「古代人が認識したと十九世紀のヨーロッパ人が認識したところのものを真実としてこれを信仰した」のだから手がこんでいる。さらに宣長や徂徠の文献研究が自身の刻苦の結果生み出された、いわば努力の結晶であるのにくらべると、姉崎のそれはヨーロッパ文献学の受け売りにすぎぬ。姉崎の独創はこれに「根本仏教」の名を与え、不変の信仰規範として、日本の仏教徒に売りこんだことである。

現代の日本人が「ドロドロ・ズブズブ」であるように時代や地域に関係なく仏教は最低の凡夫からスタートせねばならない。きれいごとは妄想の中にしかない。凡夫のいない仏教は仏教ではない。

私が言いたいのは「小乗非仏説」ではない。「テーラワーダは外道である」と言うことである。
これは「説」でも「論」でもない。

釈尊自身の金口の教勅である。

「大乗非仏説」とは何か?

以下のようなものhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313114719...

大乗非仏説なんてチャチな問題ではない。
釈尊の言葉
>『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかしし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
(『ブッダ最後の旅』)

は「師弟関係の否定」であり、必然的にビク・サンガ=テーラワーダは外道である、師弟関係の否定は「仏灯明・仏帰依」の否定であるということ。

もうひとつの質問の回答に続きます。

  • aks********さん

    2016/4/1704:58:39

    どうでもよいことだが「甘やかすと癖になる」。

    green8apple8juiceさん
    もう一つの御回答で「ブッダ率いるブッダ教団」って書いてますね、この特異な言い方は記憶にある、検索するとナットウネバネバさんのもの、ナットウネバネバさんは「パーリー語」とも書いている。

    もう少し仏教を勉強して欲しい。
    あなたが語ってるのは「仏教」ではなく「仏教界」

    inchiki_2004さん
    「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、かわいそうなのはこの子でござい、親の因果が子に報い」って知ってる??
    >思想は人それぞれだけど、
    アンタの思想を語って欲しい、思想が「あれば」だけれど。。。。。

    bakainu_ba_buさん
    >釈迦はとっくに死んじまったけど、その精神と悟りへの教えは生きてる。 それで十分じゃないのか? .
    個は死んだが普遍は生きてる??!!
    反対でしょ、
    普遍は死んだが個は生きてる。




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gre********さん

2016/4/1509:36:05

あの人は、清浄な生活を良しとする「仏教」を否定したいんですよ。

それを否定しなければ、自分を否定することになりますし、密教も邪道ということになりますので。。。

しかし、ブッダ時代のサンガと、現在の南伝仏教を同一視し敵視するあたりに、論の弱さがありますし、ブッダの精神が何もわかっていないことが感じ取られるような気がします。

国語力・読解力の問題もあるのかもしれません。
認知バイアスも尋常じゃないですねw

inc********さん

2016/4/1122:58:15

思想は人それぞれだけど、この人勝手な妄想が過ぎますね。
困ったおじいちゃんです。

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bak********さん

2016/4/1119:12:20

やれやれ、 いろんな仏を作り出したり、永久に生きていて説法してるって決めたり。 釈迦も諸仏もおちおち涅槃に入ってられないね。


仏帰依 ってのは「悟りがある」って真実に帰依することでなかったのかい?
仏の教えってのは、現存する物体がないと崩れちゃうようなもろい教えだったっけか?

釈迦はとっくに死んじまったけど、その精神と悟りへの教えは生きてる。 それで十分じゃないのか?

vai********さん

2016/4/1113:05:31

>「仏」恋慕の対象を「釈尊」から
>「他方仏国土の現在仏」に移して「仏帰依」を実現し、
>ここに「大乗仏教」が成立します。

違います。
法華経では釈迦を「久遠実成の釈迦」として、「釈迦」のままで「永遠の仏」として見ています。

久遠実成の釈迦は今でも娑婆世界で説法し続けています。

釈迦はすぐそばにいるのに、悪業因縁にとらわれた者にはそれが分からない。心のまっすぐなものは釈迦を見いだすことが出来る。と書かれています。

>虚無を直証した(=無為法となった)「釈尊」は
>礼拝や供養の対象にはなれません。

これも違います。
多くの寺院では日常的に釈迦を拝んでいますし、また、涅槃会、灌仏会、成道会などの行事をおこなって釈迦を供養しています。

>教主を大日如来として「釈尊」のいらない仏教

真言宗の寺院でも常楽会などやっています。釈迦の要らない仏教なんて仏教ではありません。

iam********さん

2016/4/1017:53:35

仏に帰依することはとても難しいのです。
ですから、法帰依からスタートになります。

お釈迦様も如来が出現することが稀有の事象だから、死の直前まで法を説いていたのです。信解脱式の先達はとても困ったのではないかと思います。

いずれにせよ、古今東西問わず、四聖諦(縁起)を完全に説いているのは、お釈迦様だけですので、信解脱式か見至者式の場合には、途中で必ず原始(パーリ)仏典が必要になります。

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